亀の甲より年の功

2010-01-28 jeudi

個人的には水曜から春休み。
まだ木曜まで大学はあり、週末は入試だけれど、私の授業はおしまい。
三宅先生のところで身体をほぐしてもらってから、『中央公論』のインタビュー原稿に手を入れて、『AERA』の原稿を書いて、明治学院大学での高橋源一郎さんとの対談のゲラを直して、まとめてメールで送信。
それから部屋の掃除をして、アイロンかけ。
それだけやってもまだ日が高い。
あら、うれしや。
久しぶりにちょっと手の込んだ料理を作ろうという気になったので、買い出しに行って、コロッケを仕込む。
コロッケぐらいで「手の込んだ料理」は言い過ぎだと言われそうが、コロッケは油を使う行程が二段階あるので、ウチダ的には「ミートボールカレー」とともに「手の込んだ料理」に類別されるのである。
狭い台所だから、一回油をつかったあとに、全部片付けて、鍋も洗って、また揚げ物をするのはけっこう大変なのである。
下ごしらえができたので、タネが冷えるまでのあいだ、ずっと放置してあった光文社の『メディアと知』のゲラに手を入れる(2年くらい放置してあった・・・古谷さん、すみません)。
この原稿のもとになった授業をやっていたのはリーマンショックの前なので、成果主義や転職サイトの話題が出て来る。
もう遠い昔のことのようである。
世の中の雇用制度はまた終身雇用・年功序列にゆっくりと戻りつつある。
終身雇用・年功序列というのは要するに「上司は考課しない」ということである。
とりあえず、みんなに似たような仕事をさせ、いっしょに昇給昇格させる。
何年か経つと仕事の出来不出来にはっきりとばらつきが出てくる。
別に上司が目を血走らせて考課しなくても、まわりの全員が「この人は仕事できるなあ」「あ、こいつはダメだわ」ということがわかる。
そういう評価が定着したころに、本給はいじらないで、業務内容で差をつける。責任範囲や部下の数や使える経費の多寡で差をつける。
そうやって15年も働けば、重役コースと課長止まりのどちらの「トラック」に自分はいるのかくらいは本人にもわかる。
年功序列のいいところは評価コストがゼロで済むことと、評価に本人が文句を言わないこと、そしてなによりも「開花するのに長い時間がかかる能力」をとりこぼさないことである。
人間の能力のうちには短期的に開花するものと、起動するまでに長い時間を要するものがある。
スケールの大きな能力は膨大な「無駄飯」を喰わないと起動しない。
日本社会は久しくこの「無駄飯」を惜しんだ。
投下した資本が即日回収できるようなタイプの能力開発に必死である。
現に書店のベストセラーコーナーを見ればわかる。
「2週間でめきめき英語ができる」とか「この資格を取れば年収倍増」とか「たったこれだけの努力で10キロ減量」とかいうタイトルの本が80%くらいを占めている。
要するに「インスタント」ということである。
できるだけ短い時間でできるだけ多くの効果が上がるノウハウに人々は群がり寄る。
気持ちはわかるが、世の中には長い時間をかけないとできないことがある。
たいせつなことのほとんどはそうである。
「長い時間をかけて能力の熟成を待つ」ということを国民的規模で忌避したせいで、私たちは「たいせつなことのほとんど」と縁遠くなってしまった。
終身雇用年功序列への復帰はこの「たいせつなこと」の欠落を感じとった人たちがあちこちに出てきたことを教えてくれる。
結構なことだと思う。
終身雇用年功序列はもうひとつの制度とワンセットになっている。
それは「偕老同穴」である。
そりゃそうでしょう。
「長い歳月をかけて発現する能力の発芽」を待てるマインドと「長い歳月をかけて果たされる人間的成熟」を待てるマインドは構造的に同一のものだからである。
それは子どもの成長をのんびりと待つことのできるマインドとも同一のものである。
私たちの社会はそういうふうにして、少しずつスピードダウンしつつあるのだと私は思う。
投資したものがすぐに利子付き即金で戻ってくるようなビジネスモデルを人事にあてはめるようなものの見方はゆっくりと廃れつつある。
ありがたいことである。
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