廃県置藩について

2010-01-21 jeudi

歯の治療がそろそろ佳境に入りかかっている。
このあと上の三本の歯の基盤つくりのために、副鼻腔の「掃除」というのをして(何をするのかわからないだけにちょっと怖い)、下の歯の左奧にインプラント手術。これは最初のインプラントがうまく定着しなかったので、やり直しらしい。
先日、歯の先端が欠けて、しばらく舌が痛かった(尖った先端で、舌の横を「ヤスリ掛け」していたせいである)。
食べると痛いし、しゃべっても痛い。
だったら早く歯医者に行けばいいじゃないかとおっしゃる向きもあるだろうが、歯が割れたのが15日のことである。センター入試を「お休み」してよろしいなら私も早速に歯医者に行きたかったところである。
だから 18 日に平松大阪市長を囲んで、鷲田先生、釈先生、江さんらと会食したときも、歯が欠けたままだったので、実はしゃべるのがけっこう大変だったのである。
そろそろと舌で歯の尖ったところを探って、「クリアー」という報告が来てから、おもむろにしゃべり出す。
私のように「思考より速く舌が回る」ことで生計を立てている人間にとってはまことにつらいことである。
さいわい 20 日に3時間かけて仮歯を修復して、とりあえずしゃべっても痛くない口になった。
やれやれ。
インプラントのビスが一本なくなったので、ネジ一本で下の歯列は宙に浮いた状態で顎につながっている。
だから、仮歯列の下はスカスカである。
歯間ブラシを前から歯茎の下に差し込むと先端が口腔内に抜けるのである。
おお。
ターミネーターT800モデル気分である。
ご飯を食べているときに、この歯列の下に食べ物が潜り込むと、なんともいえない気分になる。
歯茎の下に食べ物がある。
歯が揃っている人は永遠に経験できない種類の不思議な感触である。
ふつうの人ができないこういう経験をすると、なんだか「得した気分」になる。
ハッピー・ゴー・ラッキー。

18 日に平松市長にお会いした話を書いていなかった。
市長にお会いするのは二度目である(前は懐徳堂シンポジウムのとき)。
そのときも鷲田先生、釈先生と四人で教育についてお話をした。プロデューサーは江さんと大阪21世紀協会の山納洋さん。
そのときとほぼ同じメンバーで「新年会」。
集まったのは、梅田の Comptoire Benoit。
アラン・デュカスのお店である。
山本画伯の展覧会のオープニングパーティにちょっとだけ顔を出して、みなさまにせわしなくご挨拶してから、定刻ぎりぎりに会場に到着。
さっそくシャンペンで乾杯して、お料理の説明を伺う。
野菜がたいへん美味しい。
「美味しいですね、この野菜」というと、「はい、当店では、淡路島の特約農場から野菜を取り寄せておりますから」とお答えが来る。
淡路島の農場・・・
それはもしかして倭文(しとおり)土井の。
おや、よくご存じで。タチバナさんという方のお作りになった野菜です。
こ、これはびっくり。
ご存じの通り、倭文土井の甲南醸造所と私は深い関係がある。
「美味しいですね」と言われたら、「どうも、ありがとうございます」とみなさんにお礼を言わねばならないほどに深い関係である。
もちろん、江さんが橘さんとアラン・デュカスを繋いでくれたのである。
ありがたいことである。
自分の農場で採れた野菜を超一流フレンチレストランのアレンジで市長と談笑しつつ食するという、なんだかこれは『アンナ・カレーニナ』的状況である。
当然たいへん「得した気分」になる。
平松市長は前にも書いたけれど、まことに「紳士」である。
柔らかい関西弁で話されるのだが、聴いているだけで「いい気分」になるくらいに響きのよい声である。
私はつねづね申し上げているように、人間の人品骨柄を判定するときにその人の「声」を基準にしている。
おしゃべりは当然のことながら地方行政の話が中心となる。まことに興味深くい話を多々伺った。
改めて、地方自治はどうあるべきかについて考えた。
そしたら、翌日の大学院のゼミで渡邊仁さんが「廃県置藩」について発表をしてくれた。
なんとシンクロニシティ。
地方自治はサイズの小さい、直接市民と顔を触れあうことのできる基礎自治体を中心にし、都道府県という中途半端なサイズの行政組織はむしろ解体したほうがよろしいのではないかという「廃県置藩」論は私のかねてより説くところである。
だが、現在の地方分権にかかわる議論の主流は、都道府県よりもさらにサイズ大きい自治体を基礎単位とすべしという「道州制」論である。
私にはこのアイディアがよくわからない。
「道」というのは中国の行政単位である。
唐には十道があり、中国の官制を真似た朝鮮には八道があった。
日本でも律令制下、天武天皇のころに、京都から通じる道を軸にして、おおきな「くくり」を作ったことがある。
畿内を五国(山城、大和、河内、和泉、摂津)、それ以外を七道(東海道、北陸道、山陽道、山陰道、東山道、西海道、南海道)に分かったのである。
だが、これは交通路を中心に構想された、動的な国土のとらえ方であり、一般的な意味での行政単位ではない。
行政組織があったのは、西海道だけである(ここには軍事上の理由から太宰府という地方行政機構が置かれた)。
どう考えても、道は行政単位ではない。
第一広すぎる。
例えば、東山道は近江、美濃、飛騨、信濃、上野、下野、陸奥、出羽の八国を含んでいたが、これを現在の行政区分でいえば滋賀、岐阜、長野、群馬、栃木、福島、宮城、岩手、秋田、山形、青森である。
それらの地域を「物産と人間の通り道」としてひとまとまりのものとして感知した古代人の地理感覚は、たぶん現代人よりずっとダイナミックである。
古代に「道」を構想した人々が持っていて、現代人にないのは、列島を縦横に「歩く」人たちの身体感覚に基づく空間把握である。
「道州制」を論じている人たちがどういう身体感覚に基づいて区分について考えているのか、私は知らない。
なんとなく、当該地域の人口とか事業所数とか法人税額とか年齢構成とかの「数値」をあれこれいじりまわして区切りを論じているのではないかと思う。
実際に日本列島を自分の足で歩き回ってみて、「このへんとこのへんて、なんかで繋がってるよね」という身体実感を得た人がはじめて「道」というようなダイナミックなくくりかたをできるのではないか。
地方自治を論じる人たちに欠けているのは、集団形成の基本になるのは「私はこの共同体に帰属し、この場所に根づいている」という身体実感だ、という考え方である。
この身体実感はたしかに多分に幻想的なものである。
「イデオロギー的」と言ってもいいかも知れない。
けれども、この「半ばイデオロギー的な身体実感」を手応えのある、具体的な厚みのあるものとするための努力はただの「口舌」では尽くされない。
言説や算盤勘定以外の「何か」がなければ、共同体は基礎づけられない。
当今の地方自治議論に私はこの「何か」をまっすぐとらえようとした論のあることを知らない。
私はそれなら、中世以来、私たちがその区分になじんできた「66国」や「300諸侯」について、それをどうして先人たちは基礎的な行政単位として選択したのか、その「由来」について考えてみてはどうかと思うのである。
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