卒後教育の要件

2010-01-20 mercredi

A 日新聞の取材が続いて、今回は「仕事中おじゃまします」という企画。
入試部長として執務しているところを撮影して、その仕事の苦労談を語るという趣向である。
入試のハイシーズンに、入試部長がアドミッションポリシーについて語る記事を無料で全国配信してくださるという、他大学の入試担当者が聴いたら嫉妬の余り壁をかきむしりそうなお話である。
機会を賜ったのを奇貨として、神戸女学院大学がいかにすばらしい大学であるか、高等教育の社会的責務とは何かについて持論を申し上げる。
話しているうちに、記者のかたが奇妙な動物でも見るように私をみつめている。
自分が属している組織に対して「忠誠心」を示すということは別に珍しいことではないが、学者がそういうふるまいをするのはわりと例外的だかららしい。
なるほど。そうかも。
だって、A 日新聞の記者は A 日新聞の悪口しか言わないもの、という話になる。
私が会った限りのすべての A 日新聞社の記者たちは自社の悪口を言っていた(中にはすばらしく切れ味のよいものもあった)。
新聞社はどこもだいたいそうである。
出版社はそれほど自虐的ではない。
S 潮社、B 藝春秋の編集者から自社の悪口はあまり聞いたことがない。
社風なのかもしれない。
あるいはそれぞれのメディアの「寿命」と多少は関係があるのかも知れない。
寿命といっても、会社の寿命ではないですよ(怒らないでね)。
そうではなくて、媒体の出版頻度のことである。
出てから捨てられるまでのインターバルのことである。
日刊紙や週刊誌の記事は判断が速く、断定的である。
ことの良否をその日その週のうちに断定して、翌日翌週にはそんな判断を下したことさあえ忘れてしまうというのがこれらの「短命なメディア」の手柄でもある。
発行のインターバルが長いほど良否の判断は遅くなる。
「ナントカさんはすばらしい人です」という記事を月刊誌に入稿したあとに、そのナントカさんが「覚醒剤所持で逮捕」とか「脱税で事情聴取」ということになったら記事の差し替えとかで大変である。
だから、月刊誌や季刊誌では、「まあ、当分この件についての評価はぶれないでしょうね」という論件しか扱わないようになる。
単行本はさらにそうである。
うっかりしたら 5 年くらいは売ろうという算段なわけだから、今日明日で評価が一変するようなネタは扱うわけにはゆかない。
新聞記者はだいたいシンプルでわかりやすい結論を求める。
「だから、要するにセンセイはこうおっしゃりたいわけですよね」という「まとめ」にさくさくと入るのは新聞記者たちである。
単行本の編集者はもうすこし「ぽわん」としている。
この人の話はこの先どこに着地するのかわからないけれど、まあしばらく様子を見ましょうというのが単行本担当編集者の基本的な構えである。
だから、新聞記者たちは自分たちの会社についても「さあ、どういう会社なんでしょうね。よくわかんないですねえ。でも、けっこう居心地いいかも・・・」というような曖昧な評価を口にしない。
さくっと「ダメです」と言い切ってしまう。
そういうことなのではないかと思う。
これは教育にも通じるなと思った。
結果を急ぐ教育者がおり、結果はまあ先のことなんだから、急がなくていいよという教育者がいる。
ひさしく私たちの社会では「いいから結果を早く出せ」というワーディングが支配的であった。
「日刊紙的」と申し上げてもよろしいであろう。
教育のアウトプットは速ければいいというものではないと私は思う。
もちろん速くてもいいのだけれど、教育効果が速く出るかどうかということは副次的なことだろうと思っている。
私は「卒後教育」ということをつねづね申し上げているけれど、学校教育というものは卒業したら「おしまい」というものではない。
卒業したあとも教育は続く。
卒業時点での成績だの資格だの免状だのスコアだので教育効果を測定することはできない。
卒業生たちが臨終の床において「ああ幸福な人生だったなあ」と振り返ることができるようになるためには、卒業後の自己教育が不可欠である。
卒業後の自己教育をどう進めるか。
そのための基礎づくりを学校は担うのだと思っている。
卒後自己教育にいちばん必要なのは、彼ら彼女ら自身の自分自身に対する「好奇心」である。
私はいったいどんな人間なんだろう、私の中にはどのような未知の資源が眠っているのだろうという問いがずうっと頭の上にクエスチョンマークで点灯している限り、自己教育は続くはずである。
善きにつけ悪しきにつけ、軽々に自己評価を下さないということが、たぶん卒後教育の必須条件である。
自分自身に対する好奇心、あるいはささやかな敬意。
それを学生たちのなかに植え付けることが教育機関のたいせつな仕事ではないかと思う。
そのためには例えば教師自身が自分たちが働いている当の教育現場について「好奇心」と「ささやかな敬意」を持ち続けていることが必要だろう。
この学校はどのような召命を託されてこの世に存在するのだろうか? この学校は開花することを待望しているどのような潜在可能性があるのだろうか?
そういう問いを立てている教師たちからなら、学生たちは「自己評価を急がない」というふるまいかたを学ぶことができるはずである。
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