仕事始め

2010-01-06 mercredi

朝から母の家の居間で原稿書き。
最初に『ブルータス』の「吉本隆明特集」へのアンケート回答。
「最初に読んだ吉本隆明の本は何ですか?」というようなアンケートである。
私が最初に読んだのは『自立の思想的拠点』で、1967 年、高校二年生のときのことである。
その頃、私のまわりには吉本隆明を読んでいる人はまだそれほど多くなかった。
70 年に大学に入った時点でも、決して多くはなかった。
私は全共闘の諸君は全員吉本隆明の愛読者だと思っていたので、「誰、それ?」というリアクションに仰天した覚えがある。
大学に入って最初に「吉本っていいよね」という私の言葉にそっと頷いてくれた相手は意外にも民青の活動家だったウエムラくんであった。もちろんそのようなカミングアウトは彼の党派的立場からはありえないことだったのだけれど。
時代が経つと、「1968 年には日本中の大学生たちはみな吉本隆明を熱狂的に読んでいた」というふうな「物語」が流布するけれど、それは(ほかの模造記憶同様)嘘である。
アンケートを書いたあとに、『都市問題』という雑誌の巻頭言のエッセイを書く。
21世紀第二ディケイドにおける「社会の老い方」について。
さらさら。
続いて、『中央公論』の「新書大賞」のために、平川くんの『経済成長という病』(講談社新書)について、800字の推薦コメントを書く。
よい本である。
平川くんの「人口減少や金融バブルの崩壊は経済成長の不調やそこからの逸脱ではなく、その当然の結果だ」という認識は繰り返し強調されるべきだと思う。
もうひとつ、「金融商品の売り買いは博奕だ」ということも繰り返し指摘されるべきだろう。
株価というのは「みんなが上がる」と思えば上がり、「ここらが最高値だ」と見切った人間が売り抜けて利益を確保すると同時に下落を始める。
最後に誰かが「ババ」をつかんで身上を潰すという、ある意味単純なゲームである。
金融商品の売り買い「そのもの」はいかなる富も生み出さない。誰かの懐にあった金が別の誰かの懐に移るだけである。
金融ビジネスについて平川くんはきわめてきびしい言葉を記している。

「ビジネスの要諦は、モノやサービスを生産し、それを媒介することで貨幣と信用を交換することだと考えるならば、金融ビジネスは、どんなに巨大なビジネスオフィスで行われようが、スーツにネクタイの謹厳な勤め人が行おうが、博打の世界と見分けがつかないということである。
 経済行為を博打に喩えるとはひどいじゃないかといわれるかもしれない。私は、モノやサービスという商品を媒介しないで、手銭を増やしたり、減らしたりする行為はすべて博打であるという意味で、この言葉を使っている。金融商品という言葉はたしかにあるが、それらの証券はお金それ自体の変種なのであり、金融とはどこまで言っても、お金をお金(お金の変種)と直接交換する行為なのである。
 誤解を避けるために繰り返すが、私はだからといって、博打だからそれがいけないとか、非倫理的であるとか言いたいわけではまったくない。ただ、博打をやるなら、『宵越しの金は持たない』ぐらいの覚悟は必要であり(それを横文字にすればハイリスク・ハイリターンということである)、全てを失ったからといって騒ぐくらいなら、もともとプロが跋扈する賭場に出入りすべきではないということなのである。」(48-49頁)

「世界同時不況」などという言葉を使うから、まるで世界中の人が金融危機の「被害者」みたいな話になっているが、もちろん、この事態に先だって、このような事態をつくりだすことで「大儲け」した人間はゴマンといる。
たまたま彼らはそのあぶく銭をとっくに使い果たしてしまっているので、賭場にいる全員が「しけた」顔をしているというだけである。
平川くんはどのような社会的不幸についても自動的に「被害者づら」をしようとする私たちの傾向を諫めている。
自分がどのくらい自分自身の「不幸」に加担しているのか、まずそれを点検した方がいい。
もし自分自身のコミットメントを無視して、100%の被害者として自己申請をしたならば、私をこんな眼に遭わせた「私自身の共犯事実」は野放しにされるからである。
私たちはそういうふうにしてせっせと世の中を住みにくくしているのである。
さらに続いて橋本治さんの対談集の帯文を書く。
これは100字以内という仕事なので、簡単である。
さらさら。
仕事始めに四本も原稿を書いてしまった。
なんだか今年も働きづめの一年になりそうな不吉な予感がするが、もちろん「誰のせいでもありゃしない」みんなおいらが悪いのである。
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