坂本龍馬フィーヴァー

2010-01-07 jeudi

朝刊を開いたら、一面の下の書籍広告がぜんぶ坂本龍馬関係の書籍だった。
書店に行っても坂本龍馬関係の本ばかりがずらりと並んでいる。
私たちの国では、システムや価値観のシフトが時代の趨勢としてやみがたいという「雰囲気」になると、ひとびとは幕末に眼を向ける。
地殻変動的な激動に対応した「成功例」として、私たちが帰趨的に参照できるものを明治維新のほかに持たないからである。
日本人がある程度明確な「国家プラン」をもって集団的に思考し、行動した経験は維新前夜だけである。
それはアメリカ人が社会的激動に遭遇するたびに「建国の父たち」を想起するのと似た心理機制なのかも知れない。
司馬遼太郎によると、坂本龍馬の名前はひとにぎりの旧志士たちのあいだでこそ知られていたが、明治中期にはもうほとんど忘れ去られていた。
それが国民的な知名度を得たのは、日露戦争前夜の1904年、皇后の夢枕に白衣の武士が立ち、来るべき戦争における日本海軍の守護を約したという「事件」があったせいである。
夢に出てきた侍の容貌が細部に至るまであまりにはっきりしていたため、皇后がそれを侍臣に徴したところ、当時伯爵になっていた田中光顕が「それは坂本龍馬です」と答えたとされている。
田中は旧土佐藩士、武市瑞山の門人だった人である。龍馬が京都の近江屋で遭難したとき、いちはやく現場に駆けつけ、坂本龍馬と中岡慎太郎の死に立ち会った。
このオカルト的エピソードが新聞に掲載されて、龍馬は一躍「日本海軍の守護神」という神格を獲得した。
どこにどういう作為があったのか、今となっては知る術もない。
だが、日露戦争前夜という国家的危機に遭遇したとき、「坂本龍馬」というアイコンが幻想的な国民の統合軸として、集団的に選択されたということに間違いはない。
この選択はおそらく無意識的なものであったはずである(他人の夢の中に出てきた人の容貌を聞いて人間が特定できるはずがない)。
けれども、無意識的な選択であったということは、それが日本人の「欲望の真のありか」に近かったということでもある。
私たちが現在有している坂本龍馬像はその大部分が司馬遼太郎が『竜馬がゆく』で造型したものである。
けれども、これを司馬の「創作」とすることに私は微妙な違和感を覚える。
司馬遼太郎は実にさまざまな幕末の人物を列伝的に描いている(西郷隆盛、大久保利通、高杉晋作、近藤勇、土方歳三、沖田総司、村田蔵六、山岡鐵舟、清河八郎、以下無数)が、司馬「竜馬」ほど生き生きと描かれた人物は他にいない。
それは司馬遼太郎自身が「この人を日本人が『危機』のときに帰趨的に参照すべき『日本人の原点』としよう」と願って「竜馬」を造型したからだと私は思う。
そして、そのような種類の「期待」は司馬が描くほかの幕末人士のうちには見ることができない。
高杉晋作も土方歳三も十分魅力的に描かれてはいるが、その人間的欠点まで含めて「愛すべき」人物として描かれたのは坂本「竜馬」ひとりである。
この「えこひいき」のうちに、私は小説家の作為ではなく、田中光顕と同じ種類の「国民的願望」の投影を見るのである。
坂本龍馬が「ほんとうは」どういう人だったのかということには歴史=物語的には副次的な重要性しかない。
私たちが自分たちの国民的アイデンティティとして、それに基づいて思考し、行動するのはいつだって「歴史的事実」そのものではなく、「歴史的事実として選択された『物語』」だからである。
「ほんとうは何があったのか」を知ることよりもむしろ、「『ほんとうは何があった』ことに私たちがしたがっているか」を知ることのほうが切実なのである。
坂本龍馬は私たちが「近代日本人の原点」として、国民的な合意に基づいて選択したアイコンである。
私はこれを「賢い選択」だったと思っている。
近代日本人がなしたロールモデル選択のうちで、もしかするといちばん賢明な選択だったのではないかと思っている。
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