ひらかわくんのおかあさんのこと

2009-12-25 vendredi

クリスマス・イブだけれど、朝暗いうちに起き出して、7時37分新大阪発の新幹線で東京へ。
平川克美くんのお母上が二十日に亡くなられて、今日はその告別式なのである。
前日のお通夜の時間帯は我が家で杖道会の納会が入っていたので早朝からの上京となった。
品川で降り、五反田で乗り換えて、池上線で石川台の斎場へ。
池上線は東京ではめずらしく近代化に乗り遅れた線で、沿線には昭和30年代の風景がところどころに残っている。
平川くんの家は沿線の久が原、私の家はそれと並行して走っている目蒲線(いまは名前が変わって多摩川線)沿線の下丸子にあった。
沿線の風景はいまも懐かしい。
石川台の駅は『秋刀魚の味』のワンシーンに出てくる。
佐田啓二に「マグレガーのゴルフクラブ」を売りつけて岡田茉莉子から初回分の月賦2000円をせしめた吉田輝男と、笠智衆から預かった5万円を届けに来た岩下志麻が、いっしょに電車に乗る駅である(映画を観ていない人には意味不明だけど)。
二人がホームに並んでいる背中を下から仰ぐカメラアングルがある。
小津安二郎はおそらく二人の背中をローアングルから見上げることのできるロケーションを求めて、斜面の上にホームがある石川台を選んだのだろう。
その石川台駅周辺のたたずまいは昭和30年代と変わらない。
平川くんのご母堂も、私にとっては昭和30年代の記憶の中に塗り込められたままの人である。
小学校の頃、放課後、家に鞄を置いてから、また自転車をこいで久が原に向かう坂をのぼって、「平川精密」によく遊びに行った。
平川くんのお母さんは「町工場のお母さん」で、いつも忙しそうにしていた。息子のともだちが遊びに来ても、途中で一回顔を出して、「おやつ」を整えてくれると、あとは放り出したままだった。
思春期の少年たちには、この「放任」感が居心地よく感ぜられた。
そして、日が暮れて、夕食の時間が近づくと、とんとんと階段を上がってきて、「さ、おうちで心配してるわよ。早く帰りなさい」と子どもたちが話に夢中になっていても、構わず放り出した。
その「帰りなさい」にはいかにも断固たるものがあって、子どもの「もうちょっといいでしょ」といったダメモト的抵抗を言下に粉砕した。
平川くんの家に遊びに行って、それでうちの夕食に遅れたことは一度もなかったから(けっこう遠かったのだ。自転車でも20分近くかかった)、平川くんのお母さんの「アラーム」はかなり早めにセッティングされていたのだと思う。
そのころの大人たちは家族の単位を超えて、一種の集団を形成して、共同で子どもたちを訓育し、市民的常識を教え込むということをしていたような気がする。
実際に私は平川くんのお母さんに何度か叱られたことがある。
なんで叱られたのかはもう覚えていないけれど、何かナマイキなことを言ったか、したかで、「がつん」と叱られた。
私のことだから、「いかにも大人に叱らせそうなこと」をしたのであろう。
その「大人たちによる共同的な教化活動」が昭和30年代のどこかで終わった。
それから後は、「それぞれの家ごとに子どもの育て方は違っていてよい(だから、よその家の子どもを訓育したり叱正したりするのは控えるように)」ということになった。
別に子どもたちがそうしてくれと頼んだわけではないし、親たちの誰かが率先して始めたことでもない。
日本中の親たちがほぼ同時に、何となくそうなったのである。
その結果、子どもたちが「友だちの家」に自分の家と同じように気楽に上がり込むことが憚られるようになった。
「友だちのお母さん」が「さ、もう晩ご飯の時間だから、遊ぶの止めておうちに帰りなさい」というまで遊んでいられる時代が終わってしまった。
そんな時代の到来とともに、私もまた「平川くんのお母さん」に出会う機会を失った。
人が死ぬと、その人とともに封印されてしまう時代の空気があり、匂いや手触りがある。
そのことを葬儀のたびに思い知らされる。
平川久子さんのご冥福をお祈りします。
平川くんもお疲れが出ませんように。
--------