ナマケモノでいいじゃないですか

2009-12-23 mercredi

ようやく授業が終わる。
今日から冬休みである。
なんとか生きて冬休みを迎えることができたことをとりあえず言祝ぎたい。
しかし、この二ヶ月実によく働いたものである。
『日本辺境論』を出したせいで、販促活動がばたばたと重なり、たいへんな日程になってしまった。
それも一段落。
辺境ネタでは養老先生と二回対談した(『新潮45』と『AERA』)
どちらもたいへん面白かった。

昨日は『サンデー毎日』の取材。
雑誌の4頁を使って本の宣伝をしてくれるというありがたい企画である。
いろいろなメディアからの取材を受けたり、書評を読んで感じるのは「日本人よ、がんばれ」という叱咤激励型の言説に日本人自身がもううんざりしているということである。
叱咤激励的であるという点では右翼も左翼も変わらない。
「今の日本はダメだ」という点では進歩的反動的、老いも若いも、みな口調が揃っている。
「いいじゃん、もう、これで」という脱力系の言説だけが存在しない。
日本がダメである所以の過半は「怠惰」ではなく「勤勉」の結果である。
だから、「ダメなのでがんばる」という脊髄反射的なソリューションを採択している限り、「ダメ」さはさらに募るばかりである。
私はそう考えている。
なぜ日本は「こんなふう」になってしまったのか。
日本をダメな国にしようと邪悪な意図をもって活発に活動した日本人などどこにも存在しない。
ある種の社会的不幸に際会したときに、「その変動から受益している単一の張本人」がいると推論して、それを特定し排除しさえすれば世の中はふたたび「原初の清浄」に戻るという思考のしかたのことを「陰謀史観」と呼ぶが、世の中は残念ながらそれほど単純な作りにはなっていない。
社会的不幸には単一の有責者など存在しない。
責任の重さに濃淡はあるが、成員のほとんどが無意識的に加担し、成員のほとんどが間接的にそこから受益しているのでない限り、「社会的な不幸」と呼ばれるような重篤な事態は出来しない。
日本の刻下の不幸は「ダメな日本をまっとうな国にしよう」として試みられたすべての国民的努力のみごとな「成果」である。
『辺境論』における私からのご提言は「だから、努力するのを止めませんか」ということである。
国際社会でのリーダーシップも、経済成長も、学術での先導的役割も・・・そういう「身につかない」望みを持ったことによって、日本人は不幸になっていったのである。
論理的には当たり前のことで「向上心」というのは「欠落感」と同義語だからである。
「他者が所有し、自分が所有していないもの」について、それは「本来私もまた所有すべきものであり、他者によって一時的に不当に占有されているのである」というふうにシステマティックに考えることによって日本はこれまでやってきた。
権力も財貨も威信も情報も文化資本も、なべて他者がすでに所有して自分に属さないものを「私もまた所有すべきである」と一律に見なすことによって私たちは「向上心」に燃料を備給してきた。
それは恒常的に「欠落感に灼かれている」ということである。
絶えず上を向いて羨望のよだれを垂らしている「ビンボー人根性」をオーバーアチーブの唯一のモチベーションとしてきたということである。
それによってたしかに私たちの国は敗戦後、奇蹟の経済成長を遂げ、科学技術のいくつかの領域で先端的な業績を上げ、国際政治の一隅にそれなりの地歩を占めるに至った。その努力は多としなければならない。
だが、恒常的に欠落感を感じ続け、「世界標準へのキャッチアップ」だけでわが身を鞭打ち続けているうちに、日本人は国民的規模で「鬱」になってしまったのである。
現在の日本の不幸の原因は「過労」である。
過労でやつれはて、生きる意欲をなくしている人間に向かって、「さあ、『過労』を克服するために、刻苦勉励しよう」と言い立てるのはあまり賢いふるまいとは思えない。
少なくとも精神科の医者は止めるであろう。
個人については万人が同意する診断について、国民全体については同意できないというのは、そこまで「刻苦勉励病」の病巣が深く国民性格のうちに巣喰っているということである。
それだけ病状は深刻なのである。
だから、「休もうよ」と申し上げているのである(と言っている本人がまず休むことが先決なのだが、それができないでつい仕事をしてしまうというところに現代日本の病状の深刻さが露呈しているのであるが)。
私たちの国の言論人は人々に向かって「もっと努力しろ」と告げるタイプの言説しか語らない。
「そんなにむきにならなくてもいいよ。疲れてるなら、少しの間、休もうよ」といういたわりの言説だけが誰によっても口にされない。
これは異常である、と私は思う。
例えば、環境問題というのは誰が何と言おうと「働き過ぎ」の成果である。
働くほど環境は破壊される。
ほんとうに環境を保全したいと望むなら、自然の再生産が可能な範囲に経済活動を自粛するべきなのである。
緑に覆われたペロポネソス半島はいまは禿山だらけだが、それはギリシャ人が製鉄の燃料のために切ってしまったからである。
古代の経済活動レベルに戻してさえ、それでも環境は破壊されてしまうのである。
そのことを覚えておこう。
繰り返し論及している教育問題についても、同じである。
日本の子どもたちの学びへの意欲が急速に減退しているのは、「勉強すると金になるぞ」という類の経済合理性によるインセンティブを過剰服用したせいである。
小学生たちは深夜まで塾通いをしている。そんなふうにして学習時間はどんどん長くなり、教育費はどんどん高騰し、学力はどんどん下がっている。
それに対して、さらに学習時間を長くして、さらに教育費を高騰させ、学力による格付けと差別を強化することを教育行政はめざしているが、その結果がさらなる学力低下をしか生み出さないことに彼らだって内心気づいてはいるのである。
ただ、脊髄反射的に「失敗したら、さらに努力する」ソリューションしか思いつかないのである。
繰り返し申し上げるが、現代日本の不幸の過半は「努力のしすぎ」のせいである。
私たちは疲れているのである。
私たちに必要なのは休息である。
『日本辺境論』が売れているのは、「もう努力するのを止めましょう」という(日本人みんながほんとうは聴きたがっている)実践的提言をなす人がいないせいである。
きっとこの後、潮目の変化を感じとった言論人の中から「日本人よ、ナマケモノ化せよ」といったタイプの言説を語る人が出てくるだろうと思うけれど、そういうことを「せよ」という当為の語法で語るのがもう「刻苦勉励」なんだよね。
こういう提言は「オレ、ちょっと疲れちゃったからさ、休まない? ねえ、休まない?」という懇請の語法で語られないと通じないのよ。
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