人間はどうして労働するのか

2009-12-16 mercredi

『日本の論点2010』(文藝春秋)が届いた。
そこに「労働について」一文を寄せている。
こんなことを書いた。

「働くとはどういうことか」
 編集部から「働くとはどういうことか」というお題を頂いた。この問いがトピックとなりうるという事実から私たちはさしあたり次の二つのことを推論することができる。

(1)「働くことはどういうことか」の定義について、現在のところ一義的な定義が存在しない(あるいは定義についての国民的合意が存在しない)。
(2)そのことが「うまく働けない」若い人たちが存在することの一因だと思われている。

だが、「働くとはどういうことか」についての一義的な定義や国民的合意が存在しないことを私は特に困ったことだと思っていない。その理路を述べたいと思う。
人間だけが労働する。動物は当面の生存に必要な以上のものをその環境から取り出して作り置きをしたり、それを交換したりしない。ライオンはお腹がいっぱいになったら昼寝をする。横をトムソンガゼルの群れが通りかかっても、「この機会に二三頭、取り置きしておこうか」などとは考えない。「労働」とは生物学的に必要である以上のものを環境から取り出す活動のことであり、そういう余計なことをするのは人間だけである。
どうして人間だけがそんなことをするのか。それは「贈与する」ためである。ほかに理由は見当たらない。もし、腹一杯のライオンがそれでも獲物を狩ったとしたら、その獲物は誰かに(仲間のライオンかハイエナか禿鷲かあるいは地中の微生物か)「贈り物」として与える以外には用途がない。
「働く」ことの本質は「贈与すること」にあり、それは「親族を形成する」とか「言語を用いる」と同レベルの類的宿命であり、人間の人間性を形成する根源的な営みである。そのような根源的なものについては、それが何かを一義的な言葉づかいで語ることはできない。例えば、「言語とは何か」と私たちは問うことができるけれど、その問いは言語によって行うしかない。「貨幣とは何か」という本を書くことはできるけれど、その本を書いた経済学者はその印税の支払いをおそらくは貨幣で求めるはずである。労働もそれと同じである。
人間以外の動物はしないことはたぶん労働である。「たぶん」という限定を付すのは、それが労働であるのかどうかは事後になって、それを「贈り物」として受け取る他者の出現を待ってしか判明しないからである。
労働は価値を創出する。だが、価値というものは単体では存在しない。価値というのは、それに感動したり、畏怖したり、羨望したりする他の人間が登場してはじめて「価値」として認定されるからである。
ガレージにこもって基板にはんだ付けいる青年がしていることが「労働」かどうかはその時点ではわからない(短期的スパンを取れば、消費するだけである)。だが、彼の作った電子ガジェットが爆発的に売れて、気がついたら大富豪になってしまったということになると、回顧的には「あのとき彼は労働していたのだ」ということになる。
どういう行為が「働く」ことであり、どういう行為がそうでないのかは、働き始める前にはわからない。働いて何かを創り出した後に、それを「欲望する」他者が登場してきてはじめてそれは労働であったことが遡及的にわかるのである。そういうふうに労働は時間の順逆が狂ったかたちで構造化されている。
「穴を掘って、それをまた埋める」という作業の繰り返しそのものは労働ではない。いかなる価値も創り出していないからである。ドストエフスキーは、人間はそのような作業の無意味さに耐えられぬであろうと書いた。だが、もし、その作業の従事者たちが、穴の掘り方や土の運び方について工程を工夫し、システム改善について議論することが許されていた場合、私が試みるささやかな工夫に驚いたり、感心したりする他者の顔を私が想像できたなら、それは限りなく労働に近づいていると言うことができるだろう。
私の大学の同僚の島﨑徹さんは少年の頃カナダに渡り、ダンスのレッスンを受けながら、レストランで皿洗いのバイトをしていた。そのとき、島﨑少年は独創的な皿洗いシステムを思いついて、それを提案して、受け容れられた。それから何十年か経って、世界的なダンサーになった後、島﨑さんはかつて働いていたそのストランを訪れてみたことがあった。ふと厨房を覗いてみると、人々は「島﨑システム」で皿を洗っていた。
佳話である。
このとき、島﨑さんにとって、皿洗いの経験は、その言葉の本来の意味において、労働になったのだと私は思う。ある仕事が数十年経って、「労働になる」ということがありうるのである。その人がなしとげたことの意味は、仕事そのものではなく、それが他者に何を贈ったかで決まるからである。
島崎さんは皿洗いを通じて見知らぬ人々に(効率的で気分のよい皿洗いシステム)という「贈り物」をした。その「贈り物」を現に享受している人々がカナダの一隅に現に存在している。その事実によって、少年時代の労働は(当時受け取った賃金の他に)いくばくかの価値を加算されたのである。
「現に享受している」という言い方は正確ではないかもしれない。島﨑さんは、おそらく皿洗いをしているときすでに、賃金以上のものを、未来において彼が開発したスキルの恩恵を受益する人々のことを想像するというかたちで、前倒しで受け取っていたはずだからである。そして、たぶんそのときすでに彼は例外的に陽気で働き者の皿洗いとして、厨房の雰囲気を明るくしていたはずである。
「島﨑システム」の恩恵の受益者である「次代の皿洗い」はまだ出現していない。それは仮説的にしか存在しない。けれども、自分がなした仕事から何らかの喜びや愉悦や利益を受け取る他者がいつか出現するであろうという予測をもてるならば、それは、労働に今ここで価値を加算するのである。
逆の例を考えればわかる。地球最後の日に、生き残った最後の一人がいたとする。彼が画期的な癌特効薬を発明しようとも、宇宙の全事象を説明できる理論を完成させようとも、それはもう労働ではない。その成果を享受しうる他者がもうどこにもいないからである。労働の価値は労働そのものに内在するわけではない。その成果を享受する他者たちによって事後的に賦与されるのである。
何年か前、武術家の甲野善紀先生とレストランに入ったことがあった。私たちは七人連れであった。メニューに「鶏の唐揚げ」があった。「3ピース」で一皿だった。七人では分けられないので、私は3皿注文した。すると注文を聞いていたウェイターが「七個でも注文できますよ」と言った。「コックに頼んでそうしてもらいますから。」彼が料理を運んできたときに、甲野先生が彼にこう訊ねた。「あなたはこの店でよくお客さんから、『うちに来て働かないか』と誘われるでしょう。」彼はちょっとびっくりして、「はい」と答えた。「月に一度くらい、そう言われます。」
私は甲野先生の炯眼に驚いた。なるほど、この青年は深夜レストランのウェイターという、さして「やりがいのある」仕事でもなさそうな仕事を通じて、彼にできる範囲で、彼の工夫するささやかなサービスの積み増しを享受できる他者の出現を日々待ち望んでいるのである。もちろん、彼の控えめな気遣いに気づかずに「ああ、ありがとう」と儀礼的に言うだけの客もいただろうし、それさえしない客もいたであろう。けれども、そのことは彼が機嫌の良い働き手であることを少しも妨げなかった。その構えのうちに、具眼の士は「働くことの本質を知っている人間」の徴を看取したのである。
働く人が、誰に、何を、「贈り物」として差し出すのか。それを彼に代わって決めることのできる人はどこにもいない。贈り物とはそういうものである。誰にも決められないことを自分が決める。その代替不能性が「労働する人間」の主体性を基礎づけている。
その「贈り物」に対しては(ときどき)「ありがとう」という感謝の言葉が返ってくる。それを私たちは「あなたには存在する意味がある」という、他者からの承認の言葉に読み替える。実はそれを求めて、私たちは労働しているのである。
今、若い人たちがうまく働けないでいるのは、そのことに気づいていないからだと思う。彼らは「働くとはどういうことか」についての定義があらかじめ開示されることを求める。働くとどういう報酬が自分にもたらされるのかをあらかじめ知りたがる。それが示されないなら、「私は働かない」という判断を下すことも十分合理的だと考えている。けれども、残念ながら、「働くとはどういうことか」、働くとどのような「よいこと」が世界にもたらされるのかを知っているのは、現に働いている人、それも上機嫌に働いている人だけなのである。

だいぶ前に書いたものだが、そのあとも「働くとはどういうことでしょう」という趣旨の取材を何度か受けた。先日の紀伊國屋ホールの講演のあとの質疑応答でも、やはり同じような質問がなされた。
ここに書いたように、「働く」というのは、本質的には「贈与する」ということであり、それは人間の人間性をかたちづくっている原基的ないとなみである。
だから、「言語をもちいる」や「親族を形成する」と同じく、「どうしてそうするのか」を訊くことができない。
レヴィ=ストロースが言うように、人間性を基礎づけるすべての根源的制度の起源は闇に消えていて、私たちは人間である以上、それに直接には決して触れることができないからである。
「働くとはどういうことでしょう?」という問いを掲げる人間は、それによってすでに言語を用いているし、そのような批評的な問いを発しうる知性の持ち主であることについて他者からの(できればエロティックな関心を含んだ)敬意を向けられることを願っているし、場合によってはそのような問いを発したことの代価を貨幣で得ようとしている。
人間のいとなみはずべて「言語使用」「親族形成」「経済活動」の三つのレベルでのコミュニケーションにすでに帰属していて、決してそこから出ることができない。
それゆえ「どうしてそんなことをするんですか?」とどこまで遡及的に意味を問うても、「それはお前が人間だからだ」という以外の答えに出会うことはないのである。
「働くとはどういうことですか?」と問うのは「人間であるとは、人間にとってどういう意味をもっているのですか?」という問いと同じようなトートロジーである。
けれども、そのような近代以前では決して口にされなかったであろう問いが今ではしばしば表明されるのには、それなりの歴史的文脈というものがある。
それは「働くことは自己利益を増大させるためである」という歪んだ労働観がひろく定着したせいである。
働くと、その程度に応じて、権力や威信や財貨や情報や文化資本が獲得される。だから働け、というのが近代固有の労働観である。
このきわめて特異な労働観を徴候的に示しているのは、かのベンジャミン・フランクリンである。
フランクリンはこう書いている。

「時は貨幣であるということを忘れてはいけない。一日の労働で10シリングをもうけられる者が、散歩のためだとか、室内で懶惰に過ごすために半日を費やすとすれば、たとい娯楽のためには6ペンスしか支払わなかったとしても、それだけを勘定に入れるべきではなく、そのほかにもなお5シリングの貨幣を支出、というよりは、抛棄したのだということを考えねばならない。(…) 貨幣は生来繁殖力と結実力を持つものであることを忘れてはいけない。貨幣は貨幣を生むことができ、またその生まれた貨幣は一層多くの貨幣を生むことができ、さらに次々に同じことが行われる。(…) 貨幣の量が多ければ多いほど、その運用から生まれる貨幣は多く、利益の増大はますます速やかになってくる。(…) 信用に影響を及ぼすなら、どんな些細な行いにも注意しなければいけない。午前五時か午後八時に君の槌の音が債権者の耳に聞こえるならば、彼はあと6ヶ月構わないでおくだろう。それどころか労働していなければならない時刻に君を玉突き場で見かけたり、料理屋で君の声を聞いたりすると、彼は翌朝になれば君に返却せよと、準備もできぬうちにその貨幣を要求してくるだろう。
そればかりか、そのようなことは君が債務を忘れていない印となり、君が注意深いとともに正直な男であると人に見させ、それで君の信用は増すだろう。(…) 君の周到と正直が人々の評判になっているとすれば、君は年に6ポンドの貨幣で100ポンド使わせてもらうことができるのだ。」(マックス・ウェーバー、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』、梶山力、大塚久雄訳、「中央公論世界の名著50」、1975 年、113-114頁)

フランクリンの労働観が徴候的なのは、労働の目的が「貨幣を得ること」それ自体だという点にある。
ひとりの人間が周到で、勤勉で、債務を忠実に履行するだけ遵法的であらねばならない理由は、「そうするほうが金が儲かる」からであるとフランクリンは書いている。
人間の経済活動についての理解はこのとき逆立したのである。
人間が経済活動を行い始めたのは、(この数日しつこく書いているように)「商品交換」という歯車を一枚噛ませたほうが「人間は成熟することを促される」ことにあるとき太古の人々が気づいたからである。
フランクリンの言い分とは逆に、「金儲けを督励するのは、そうした方がひとりの人間が周到で、勤勉で、遵法的になる上で効果的だからである」というのがほんらいの語順なのである。
語順が狂ったまま200年ほど経った。
「人間が労働するのは、できるだけ多くの貨幣を得るためである」という倒錯した労働観が現在では「常識」として流布されている。
それは「より多くの貨幣はより多くの幸福をもたらす」という(これまた蓋然性のあまり高くない)命題とセットになっている(実際にはもう少し控えめに、「人間、金があれば幸福になれるというわけではないが、金で不幸を追い払うことはできるのだよ、お嬢さん」(『サイコ』)という程度の貨幣崇拝だが)。
それはフランクリンが書いているように、私たちがいまだに「貨幣は貨幣を生み出す」という重商主義の幻想の虜囚であるということを意味している。
貨幣そのものが富の本質であり、それ自体が繁殖力を持っているならば、たしかにより多くの貨幣を得ることは生きる目的ともなりうるだろう。
でも、実際にはそうではない。
ほんとうにそうなら、世界中の人間が株や金や不動産や金融商品の売り買いだけに専念していれば、世界の富は激増するはずであるが、実際には全員が遠からず汚物にまみれて餓死してしまう。
貨幣が珍重されるのは、貨幣が介在した方が労働が活性化し、「ピュシスから富を取り出す」ことへのモチベーションが高まるからである。経済活動が重要なのは、経済活動に参与するプレイヤーの「資格」に「市民的成熟」という条件が付されているからである。
貨幣そのものは富ではない。ただの貝殻であり、金属片であり、紙切れであり、電磁パルスである。
幼児でも参加できるなら、その経済活動は人類学的な意味ではもう「経済活動」ではない。
労働の目的は「人間の人間性を基礎づけること」である。
端的に言えば「大人になること」である。
より具体的に言えば「適切なしかたで贈与が行える人間になること」である。
私たちの時代において「働くとはどういうことですか?」という問いが繰り返し口にされるのは、「贈与できるものになる」ことが人間の本質であるということを誰も言わなくなったからである。
経済学者が誰も言わないので、私が代わりに言っているのである。
--------