動的平衡な夜

2009-12-15 mardi

「死のロード」が終わり、月曜は「今年最後の出稼ぎ」。
朝カルで福岡伸一ハカセと対談。
福岡ハカセはご自身を「ハカセ」と称し、また私のことを「内田センセイ」と表記されているのはご案内のとおりである。
この「ハカセ」という自称には福岡先生の自然科学に対する深い愛着とクールな批評性の両方がこめられていて、私はこの文字を見るたびに、胸の奧が「ぽっ」と暖かくなる。
福岡ハカセ自身も、お会いするたびに「ぽっ」と胸の奥が暖かくなるような方である。
「センセイ」にも同様の文学的余情がある。
新刊はお互いに送り合っており、そのつどそれぞれの書評コラムで「めちゃ面白いです」と「ほめっこ」しているのもご案内の通りである。
そういうフレンドリーかつハート・ウオーミングな「仲良し」二人なのであるが、忙しくてなかなかお会いする機会がなかった。
今般は朝カルの森本さんのオハカライで1年半ぶりくらいのご対面となった。
今回の対談はハカセの連載対談シリーズの一環としてある雑誌に掲載され、かつ私の連載対談シリーズの一環としてある雑誌に掲載され、そのあとそれぞれの単行本に収録される予定。
つまり、「一粒で五度美味しい」徹底収奪企画なのである(すごいね)。
期待通りにまことにスリリングな対談であった(と自分で言うのもどうですけど)。
テーマは「動的平衡」。
動的平衡は分子レベルでの現象であるが、ハカセがその『生物と無生物のあいだ』で活写したように、「分子レベルで起きていることは、人間の社会活動レベルでも起きている」のである。
その書評を書いた日のブログに私はこう書いている。再録しておく。

学説史の祖述を読んで「どきどきする」ということがあるのだろうか?
これがあるのですね。
もちろん素材そのもの(「二重らせん」理論の前史とその後の展開について)がスリリングだということもあるのだけれど、福岡先生の文体が「ロジカルでクール」に加えて「パセティック」だからである。
「ロジカルでクールでパセティックな学説史」を私は中学生の頃に一度だけ読んだ記憶がある。
レオポルド・インフェルトの『神々の愛でし人』である。
数学者エヴァリスト・ガロアの短く浪漫的な人生を描いたこの伝記に出てくる「群論」とか「五次方程式」とか「冪数」(「べきすう」と読むのだよ)いう言葉の意味は私にはもちろん意味不明だったけれど(だいたい私は中学の数学でさえあまり理解できていなかった)息が苦しくなるほど興奮したことを覚えている。
この本はインフェルトがガロアに捧げたように、福岡先生がオズワルド・エイブリーとルドルフ・シェーンハイマーとロザリンド・フランクリンいう三人の「アンサング・ヒーロー」(unsung hero、すなわち「その栄誉を歌われることのない、不当にも世に知られていない英雄」)に捧げた本である。
その点がこのクールな本に「パセティック」な室温を賦与しているのだけれど、この本の「すごい」ところはそこには尽くされない。
推理小説をまだ読んでいない人にいきなり真犯人を教えてしまうようでいささか気が引けるがが、この本の最大の魅力は福岡先生がこの三人の(ノーベル賞をもらうはずだったのに、あとから割り込んで来た学者にさらわれてしまった真のイノベーター)の生命研究者の学者としての「ふるまい」のうちに「生命のふるまい」そのものを見ていることにある。
遺伝子を扱う人々のふるまいが遺伝子そのもののふるまいと二重写しになっているのである。
「二重らせん」を発見したワトソンとクリックは「でこぼこコンビ」で行動するとそうでない場合よりもパフォーマンスが高いことを実証してみせた。
「DNAは日常的に損傷を受けており、日常的に修復がなされている。この情報保持のコストとして、生命はわざわざDNAをペアにしてもっているのだ。」(「サーファー・ゲッツ・ノーベルプライズ」)
この文の「DNA」を「生物学者」に置き換えると、「二重らせん」の発見者たちのペアが顕微鏡写真の中にそれと知らずに「自分たち自身の肖像」を透視していたことがわかる。
福岡先生の学説史は生物学者たちがどのように離合集散し、どのようにペアを組み、どのように実証と理論を分業し、先行する理論の損傷を補填してより安定性のよい理論を構築するかをたんねんに追ってゆくのだが、彼らが追っているのは「遺伝子を構成する分子たちがどのように離合集散し、どのようにペアを組み、どのように分業し、先行する単位の損傷を補填してより安定性のよい生命構造を構築するか」という謎なのである。
もちろん福岡先生はそんな「種明かし」はしてないけれど、「そういう話」なのである。
かつてアンドレ・ブルトンは『ナジャ』の冒頭にこう書いた。
「私が誰であるか (ce que je suis) を知りたければ、私が何を追っているか (ce que je suis) を知ればよい」(違ったかもしれない。誰か覚えている人がいたら教えてね。でも、だいたいそういうことである)
まことにブルトンのいう通りである。
福岡先生はそれをひっくり返して、「もし科学者たちが自分の追っているものの正体を知りたければ、自分が何であるかを知ればよい」と言っているのである。

まことに驚くべきことに、「動的平衡」という分子レベルでの「生命のふるまい」は、私たち人間の社会レベルでの「生命のふるまい」と同型的なのである。
そこで分子たちは「共生」し、「空気を読み」、「情報を適切なレシーバーめざして送り込み」し、「臨機応変、融通無碍」に、自分のありようを「組織全体のパフォーマンスを最大化するように変成する」。
生きるとは変化するということである。
そして、変化の仕方の多様性は、そのまま「生きる力」に相関する。
「変化の仕方」が変化せず、つねにワンパターンでしか変化できない生物は環境の劇的な変化に対応して生き延びることができない。自己同一的であることに固執する生物は「生きる力」を失う。
もっとも自由闊達に変化するものがもっとも自己同一的である。
逆説的だがそういうことなのである。
このことは人間的事実としては真理である。
「秩序は守られるために絶え間なく壊されなければならない」(同書、166頁)
「変化の速度」を加速させることでシステムの安定をはかったのが資本主義の狡知である。
たしかにそれによって「絶え間なく壊される」という条件はクリアされた。
けれども、「変化の速度」がある閾値を超えたところで、思いがけないことが起きた。
それは「あまりに変化の速度が速くなりすぎると、変化の仕方を変化させるところにまで手が回らない」という事態である。
あまりにものごとの変化が速くなると、変化は常同的なことの繰り返しになる。変化はその極限で同一性に帰着する。
過剰に活性化されたせいで、交換の流れは停滞し、システムの流動性が失われるということがありうる。
それが私たちの資本主義社会の実相なのだと私は思っている。
だから、経済システムを「生き返らせる」ためには、分子レベルと同じ意味での「生命」をそこに吹き込むしか手だてがない。
さしあたりそれは「変化の仕方の多様性を保証する」ということである。
言い換えれば「適切に次のプレイヤーにパスする」ということである。
ボールゲームにおいてパスを送る相手を選ぶ基準は「できるだけ可動域が広く、次の動きについて多くの選択肢をもつプレイヤー」である。
私たちは「送られたボールを抱え込んでその場に座り込むプレイヤー」や、「いつも同じコースにしかパスを出さないプレイヤー」には決してパスを送らない。
ボールゲームのプレイヤーと同じように、動的平衡のうちにある分子たちと同じように、私たちは「よきパッサー」「よきレシーバー」とならねばならない。
分子レベルの生命活動と、社会レベルの生命活動は同一の構造をもっている。
私たちの社会化された認識が自然現象のうちにおのれの似姿を読み込んでいるのか(ハカセはこれを「空目」と呼んだ)、あるいは私たちが分子レベルで発生的に経験した「生命とは何か」についての刷り込みを私たちは人間的事象において「複製」しているのか(俚諺に言う「蟹はおのれの甲羅に合わせて穴を掘る」)。
どちらであるかはわからないが、実践的にはどちらでも同じである。
というような話をする。
このような支離滅裂な話にきちんと受け答えしてくれる対話相手として福岡ハカセ以上の人は望みがたいのである。

終わってから東京にお帰りになる福岡ハカセをお別れして、プチ打ち上げ。初参加はドクター岩田ご夫妻、鳥取から来た倉吉東高校の芝野先生、それにあら珍しや狂言師の桝谷くん。
アダチさんが「ここはまあ新潮社が・・・」とどおんと太っ腹なところを見せてくれたので、全員で新宿区矢来町方面に向けて合掌。
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