今年最後の死のロード

2009-12-14 lundi

本年最後の死のロード。
これで旅は終わりである。あとは大学の本務を果たし、年賀状を書き、煤払いをして晴れて年越しである。
早起きして東京へ。今年最後の多田先生の研修会。
半年ぶりくらいである。
そのあとも無理すれば行けないこともない日曜も2,3度はあったのだが、あまりに疲れて、家で死に寝していたのである。
今週は今年最後であるので、死力を振り絞って本部道場に出かけた。
道場に入って、道着に着替え、同門の諸君と挨拶をかわしていると、なんだか元気になってくる。
のぶちゃん、工藤君、ツッチー、闇将、山田先輩、ブルーノくん(ひさしぶりだね)、大田さん・・・といつもの顔を見ると、なんだかほっとする。
多田先生が道場に入ってこられると、道場がさっと「明るくなる」。
ほんとに。
白い淡い光のようなものが多田先生といっしょに道場に入ってくるのである。
端座している先生をみつめていると、先生の体感に同調して、体軸が「きり」っと引き締まる。
全身のセンサーの感度を最大にして、多田先生から送られてくる気の波動を感じ取る。
ひさしぶりに工藤君やツッチーにばかすか投げられる。
ふだんは教えるばかりで、受け身を取らないので、投げられるということがまことにひさしぶりである。
二教の裏をかけられたのも、たぶん半年ぶりくらいである。
肩も凝るはずである。
ほんとうはふだんも稽古にまざって受け身を取りたいのだが、稽古に入ると軽いトランス状態になって、夢中になってしまう。
それだと道場の全体を見渡すことができない。
どういうところでみんなが躓いているのか、誰が怪我をしそうなのか、そういうことを見るのが指導者の仕事であるが、それができない。
指導するというのは、たしかに学ぶことも多いが、その分、何かとトレードオフしなければならぬのである。
今日は多田先生から珍しいお話しを伺った。
嘉納治五郎先生と植芝盛平先生の「対比列伝」である。
はじめて聴くお話であった。
この話を聴くためだけでも研修会に来た甲斐があった。
先生に年末のご挨拶をして、お正月に伺いますと申し上げて、はやばやと退出。

そのあと紀伊國屋ホールで『日本辺境論』の販促キャンペーン講演がある。
6時半から8時まで。
『日本辺境論』については、もう中身は書いたことだし、聴衆のみなさんもおおかたは読まれているはずなので、違う話をする。
「日本再生論」である。
シュリンクしてゆく社会をどう生きるのか。パイが縮んでゆく時代における社会的公正の実現はどのようにして果たされるのか。
経済活動ということを多くの人は GDP とか株価とかいう数量的なもので考量するが、実際の経済活動は商品経済には限定されない。
「モノの交換」があれば、それはすべて経済活動である。
私たちの時代において経済が停滞し始めているのは、「商品とその代価」という等価交換がもはや限界が来ているということである。
実際の経済活動には「商品とその代価の等価交換」以外に無数のものがある。
むしろ、「モノの交換」そのものよりも、それを可能にするための社会的共通資本の整備のほうが経済活動の本来の目的なのだと私は思う。
モノを交換するためには、交換の「パートナー」がいなければならない。
それがないと話にならない。
けれども交換を支えるのは「需要供給」ではない。
「あなたの欲するものを私が所有しており、かつ私が欲するものをあなたが所有している」という事態は「欲望の二重の一致」といって、天文学的確率でしか起こらない。
私たちが交換を行うのは、そこにゆきかう商品やサービスが「欲しい」からではなく、端的に他者と交換を行いたいからである。
経済活動の根本にあるのは、この「他者とかかわりをもちたい」という欲望である。
私たちは商品が欲しくて交換をするのではない。
交換をしたいから交換をするのである。
それは別に私たちの脳に「交換本能」のようなものが組み込まれているからではない(まさかね)。
そうではなくて、「継続的に交換をする」ために、私たちはいろいろな「手立て」を講じなければならないのだが、その「手立て」が整っていることが人間が生きてゆく上で死活的に有用なのである。
例えば、ごく卑近な商品交換を例にとっても、商品と貨幣の交換が成立するためには、まず顧客と売り手のあいだに「言語」が通じなければならない。顧客が市場に行き、商品が市場に届くための「交通」が整備されていなくてはならない。商品を発注したり、宣伝をしたりするための「通信」が機能していなければならない。決済や融資のための「信用」機関が存在しなければならない。マーケティングのための「情報」処理ノウハウがなければならない・・・おわかりだろうか。
マクドに行って「てりやきバーガー」を頼むためには、言語と交通と通信と信用と情報にかかわる社会資本が整備されていなければならないのである。
正直な話、「てりやきバーガー」なんかどうでもいいのである(別に食べたくないし)。
でも、社会資本はどうでもよくない。
なければ困る。
シャネルのドレスだって、ヴィトンのバッグだって、カルティエのリングだって、そんなのなくても誰も困らない(世の男性のほとんどは、そんなものこの世になければいいのに・・・と内心は思っている)。
でも、それを売り買いするためのインフラストラクチャーは「ないと困る」のである。
インフラストラクチャーを整備するために、「その上に載せるもの」を(「別になんでもいいだけどさ」)揃えたというだけの話である。
話の順逆を間違えてはいけない。
先人たちが資本主義経済を導入したのは、交換を加速するには(つまり社会資本を充実させるには)このシステムがいちばん効率的だと思ったからである。
ほかに理由はない。
社会資本の中には海洋、森林、湖沼、生態系といったものも含まれている。
そして、人々が見落としているのは、経済活動を円滑に進行させるためには、そこに参加する人間の「市民的成熟」が不可欠だということである。
クラ交易がそうであったように、贈与的な経済活動における主目的は「人間的成熟の動機づけ」である。
クラにおいては、「自分の交換のパートナーとなってくれる相手が何人いるか、どのような社会的ポジションにいるか」ということが死活的に重要である。
それは相手にとってもまったく同じことである。
どれだけ多くの他者から「必要」とされ、「信頼」され、彼らと互助的な関係をとりむすぶことができるか。
「交換をめざす」ものは、常にそれを念頭においてふるまわなければならない。
それを近代的な語法で言えば、「市民的成熟」ということになる。
ほんらい、経済活動は「人間を成熟させるため」のシステムであった。
その本義が見失われれば、それはもう厳密な意味での「経済活動」とは呼ばれまい。
経済活動にコミットしても、それが人間的成熟にほとんど資するところがないということがあきらかになった段階で(つまり、メディアに登場する「経済的成功者」の顔がだんだん「幼児化」してきたときから)「資本主義はもう終わりかな・・・」ということについての暗黙の合意が私たちの社会にゆっくり形成されてきたのである。
合理的な判断だと私は思う。
「利己的である方がベネフィットが大きい」というような経験則をひとびとに教示するような社会システムは、人類学的に言えば「ないほうがまし」である。
だから、資本主義社会が「市民的成熟が経済活動への参与条件として必須」であるようなシステムに書き換えられてゆくのは人類史的には必然なのである。
そして、私たちの社会はその方向に向かっていると私は思う。
市民的成熟が必ずしもベネフィットと直結しないにしても、「市民的に成熟していない人間は、どれほど利己的・打算的にふるまっても、最終的には経済活動において失敗する」ようなシステムが完備することに、国民の過半は同意するであろう。
日本経済再生の方向は「市民的成熟」と「経済活動における活動性」が相関するような社会システムを作り上げることである。
それが「贈与経済」システムである。
「贈与」というのは、クラの例で明らかなように、「簡単にはできない」ものなのである。
ほとんどのみなさんは、「交換はむずかしいが、贈与は簡単だ」と考えている。
人にもの上げることなんか誰にもできるが、商品と代価を適正なしかたで交換することはむずかしいと思っている。
まるで逆である。
人にものを贈与することの方がずっと難しい。
現に、4歳児でもコンビニで数千円の買い物を自己責任で実行することは可能だが、同じ子どもが数千円の贈与を自己責任で実行し、贈与されたものと互恵的な人間関係を立ち上げることはほとんど不可能である。
それは「パスすること」だからである。
パスを出すためには、「スペースのあるところに駆け込む」用意のあるプレイヤーを識別して、そこに過たず「贈り物」を送り込まなければならない。
「パス」を出せる人間は限られている。
あなたがもし、ここに1億円もっていたとする。
ところが、あなたはすでに「金で買えるもの」はほとんど持っている。
では、この1億円を何に遣うか?
この問いを読んで、「え・・・と」と考えた人間には残念ながらもう贈与者の資格はない。
それはバックからパスを受けてから、「え・・・と」と考えて、座り込んでいるフォワードと同じようにナンセンスな存在である。
贈与者はいつも「送り先」について考えているからである。
というか、いつも「送り先」について考えているもののことを贈与者と呼ぶのである。
手元に金があろうとなかろうと、誰に何を贈与すべきかをつねに考えている人間だけが「贈与者」の資格をもつ。
それはすぐれたボールゲームのプレイヤーが手元にボールがあろうとなかろうと、受けたボールのパスコースの無数の可能性についてつねに想像しているのと同じことである。
すぐれた「パッサー」であるためには、パスを受け、さらに次のプレイヤーに贈る用意のあるすぐれた「パッサー」たちとの緊密なネットワークのうちに「すでに」あることが必要である。
贈与経済は市民的成熟と高い共生能力をプレイヤーに要求する。
というような話をする(ちょっと違うけど)
よれよれになって終電まぎわの新幹線に飛び乗る。
稽古のあと、やっとありつけたビールが美味しい。
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