いつまで続くぬかるみぞ

2009-11-09 lundi

土曜日は指定校推薦入試。
指定校推薦の応募状況は堅調である。
ありがたいことである。
つねづね申し上げている通り、本学のような規模の大学の場合には、120万人の高校生のうちの600人くらいが「行きたい」と行ってくれれば、それで教育活動を継続できる。それは志願者を「かき集める」必要がないということである。
必要なのは「旗幟を鮮明にする」ということである。
よその学校でもしていることをうちもしています。よその学校にある教科がうちでも学べます。よその学校で取れる資格がうちでもとれます・・・というようなタイプの「勧誘」をしているうちに、いったい私たちは「何をしたくて」そもそも大学をやっているのかという根本のところの動機がわからなくなってしまう。
うちでやっているようなことはうちでしかできません。
という自負が教育機関には絶対に必要である。
そうでなければ、その学校には存在理由がないからである。
「ハードでなければ生きていけない。ジェントルでなければ生きている価値がない」とフィリップ・マーロウは言ったが、それを借りて言えば「標準的でなければ生きていけない。個性的でないなら生きている価値がない」というのが私たちを引き裂く根本的な矛盾である。
だが、その矛盾に引き裂かれてあることこそ、私たち大学人の「デフォルト」なのである。
そのときに「標準的」に軸足を置くか、「個性的」に軸足を置くか、「生き延びること」を優先するのか、「生きのびるだけの価値があること」を優先するのか、私たちはしばしば決断を迫られる。
私はできることなら「生き延びるだけの価値がある学校」であることを優先させたいと思っている。
おそらく、その「価値」を認めてくれる人の数は決して多くないであろう(フィリップ・マーロウの「支持者」がきわめて少数にとどまったように)。
それでもいい。
リンダ・ローリングが揶揄した通り、「うちに帰っても誰も待ってるわけでもない。犬や猫すらいない。ほかには小さなみすぼらしいオフィスがあって、そこに座ってお客が来るのを待っているだけ」(レイモンド・チャンドラー、『ロング・グッドバイ』、村上春樹訳、2007年、510頁)というような「乏しさ」に耐える覚悟が要るけれど。
どうして、チャンドラーのことが繰り返し出てくるかと言うと、この三日ほど『ロング・グッドバイ』を読み返していたからである。
どうして、『ロング・グッドバイ』を読み返したかいうと、クロード・レヴィ=ストロースの追悼原稿を頼まれたからである。
関係がわからない?
わからないでしょうね。
原稿を書くために『悲しき熱帯』を読み返しているうちに、「あれ・・・この文体何かに似ている・・・」と思ったからである。
はっとして、チャンドラーを取り出したら、そっくりだったのである。
どうして私がレヴィ=ストロースをこれほど好むのか、その理由が高校生のときに読み始めて 40 年経ってやっとわかった。
『ロング・グッドバイ』のあとがきに村上春樹はチャンドラーの文体について、鋭い分析を加えている。

「その雄弁さをもってチャンドラーが描こうとしているのは、いったいどんなものなのだろう? それはひとことで言うなら、語り手フィリップ・マーロウの目によって切り取られていく世界の光景である。それはきわめて正確に切り取られた光景であり、綿密に雄弁に語られてはいるものの、ほとんどプロセスを受けていない光景である。フィリップ・マーロウはおそらくそれらの光景の多くについて、何かしらの個人的な所見を述べることになる。あるいはまた、なんらかの個人的対応を見せることになる。しかしそのような彼の所見なり対応なりは、彼の自我意識の実相とは必ずしも直結していないように我々の目には映る。」(「訳者あとがき 準古典小説としての『ロング・グッドバイ』、537-8頁」

この文章の中の「フィリップ・マーロウ」を「クロード・レヴィ=ストロース」と置き換えて、これが『悲しき熱帯』についてのコメントだと言って読まされても、少なくとも私はまったくそのトリックに気づかないだろう。
『悲しき熱帯』と『ロング・グッドバイ』を並行して読むという読書のしかたをする人はあまり多くないと思うけれど、お暇な方は試みられるとよろしいかと思う。
追悼文は水曜日の毎日新聞の夕刊に掲載される予定です。

日曜日は京都国際マンガミュージアムで、養老先生と対談。
マンガミュージアムに行くのは2度目である。
「これほど来館者が熱心に本を読んでいる図書館は世界に二つとない」と養老先生が言う。
「他の図書館だと、こんな大きな声でしゃべっていると必ず睨まれるか、『うるさい』と言われるだろう。ここでは誰もそんなことしない。図書館で本を読んでいるやつは、何か理屈をつけて読むのを止めたいから、人の声がうるさく聞こえるんだよ。ほんとうに読むことに没頭している人間には何も聞こえやしない」と養老先生はうがったことを言われる。
なるほど。
対談はおもに来週出る『日本辺境論』のこと。
養老先生にはプルーフを読んでいただいて、帯文を寄せてもらった。
「いいから黙って読め」というようなわりとタイトなコメントである。
どうして「いいから黙って」なんですかと訊いたら、養老先生によると「つっこみどころ満載だから、いろいろなやつがいちゃもんつけてくるだろうから、そいつらに『黙って読め』って言っているんだよ」ということであった。
そ、そうですか。
こういう本はね、最初のうちは「何をふざけたことを言っている」とけんもほろろだけれど、読み進むうちに「ふむふむ」と納得しだして、読み終えた頃には「オレも前からそう思っていたんだ」と言い出すんだよ。
ということでした。
そうなるといいですね。
ミュージアムの対談にお越しくださったみなさまにお礼申し上げます。
ご挨拶できずにすみませんでした。
対談のあとに、内閣官房副長官の松井孝治さんと門川大作京都市長がご挨拶に見えたので、精華大学の赤坂理事長をまじえて養老先生の館長室で京都の今後の文化戦略について語っていたのでした(松井さん、お忙しい中、遠路おいでいただいてありがとうございました)。
終わったあと養老先生とご飯でも・・・と思っていたのであるが、来る途中の電車の中でレヴィ=ストロース追悼原稿の締め切りが二日過ぎていることを知らされていたので、やむなく家に戻り、こりこりと原稿を書いたのである。
ふう。
今週も週末のない一週間であった。
来週もね。
『日本辺境論』発売まであと5日です!
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