学校の制度性について、など

2009-11-06 vendredi

月曜日。珍しく、ふつうの月曜。
朝、下川先生お稽古。昼の部長会がなくなったので、授業の時間まで家事(カレー作り)と原稿書き。
それからゼミ。杖道の稽古。
帰宅してカレーを食べて、寝ころんで『鴨川ホルモー』を見る。
最初は「大学実名」でわくわくしたけれど、CGが出てきてから、急速につまらなくなる。
日本映画はもうCGを使うのを止めなさい。
なんか「手抜き」という感じ。
山田孝之くんは『クローズzero』での怪演に比べると、ちょっとトーンダウン。栗山千明ちゃんも『キルビル』での怪演に比べると(比べるなよ)。

火曜日。世間はお休みであるが、われわれは教授会研修会。
学生たちの「こころのやまい」の現況と対応策についてのレクチャーとディスカッション。
境界性人格障害と発達障害について、専門家たちから貴重なインフォーメーションをいただく。
ぐったりして帰宅。しようと思ったが、そのあと中之島のリーガロイヤルで取材。
140Bの仕事なので断れない。
終わったあと、江さん、中島さんご夫妻、それに取材してくれた柴口さんとご飯。
江さんの「ミシュラン話」と「アラン・デュカス話」は円生の『中村仲蔵』的完成度に近づきつつある。

水曜日。オフの日。三宅接骨院に行ってから、下川先生のお稽古。
レヴィ=ストロースが死んだ。
つぎつぎとメールが来る。
ドクター佐藤から「これはレヴィ=ストロース追悼麻雀大会を緊急召集すべきではないでしょうか」というご提案をいただき、さっそく緊急召集をかける。
レヴィ=ストロースの追悼記事を毎日新聞から頼まれたので、『レヴィ=ストロース講義』と『悲しき熱帯』を読む。たいへんに面白い。
読んでいるうちに時間となり、梅田へ。
大貫妙子さんのアコースティックコンサートへ。
今度、大貫さんのラジオ番組に出ることになったら、コンサートにお誘いいただいたのである。
「新しいシャツ」から「突然の贈り物」まで80年代-90年代に「主夫」をしていたときの家事のバックグラウンドミュージックが流れてきて、ちょっとほろりとする。
そうなんだよな。オレはこのサウンドを聴きながら12年間「お母さん」やってたんだよね。
そのときは半分くらい女性ジェンダー化していたので、大貫妙子が身にしみたのである。
大貫さんのラジオ番組は4月から始まり、最初のゲストが養老先生で、先月のゲストが大瀧さんである。
養老先生とはこんどの日曜にお会いする。大瀧さんとは来週水曜日お会いする。
なんだか因縁の糸でつながれているようである。

木曜日はオフのはずだが、福岡日帰り講演ツァー。
福岡県高等学校国語部会で基調講演。
「これからの国語教育のありかた」について弁じる。
もちろん私に「これからの国語教育のありかた」について定見があるわけではない。
でも、伝統的な教育プログラムはあまり「変えない方がいい」というのが私の経験知である。
学校とか医療とか宗教とかは、その基幹的なところに「儀礼」が入り込んでいる。
その儀礼的な部分が制度の惰性をかたちづくっている。
その儀礼が開発しようとしている人間的資源が何であるかは、儀礼を強いられている当の子どもたちも、それを命じている教師たちも、実はよくわかっていないのである。
合理的な人々は「旧来の陋習」を廃絶せよと言い立て、その有用性がエビデンス・ベーストで立証された教育だけを行えと言い立てる。
そして、「経済合理性という餌で釣るのがいちばん学習の動機づけとしては効果的である」という結論に達した。
でも、そうやって 30 年ほどやってきて、その結果、日本の子どもたちの学力は世界最低レベルにまで劣化した。
最初のボタンの掛け違えは「人間は私的利益を追求するときに、その心身の潜在能力を最大化する」という命題である。
けれども、生物にとって最大の「私的利益」は「死活的状況をそれでも生き延びること」なのだが、どうすればそのような状況を生き延びられるかについて、シンプルなソリューションは存在しない。
とりあえずわかっていることは「オレさえよければ、それでいい」というようなタイプの人間はたいてい長くは生き延びられないということである(ゾンビ映画を見るとわかる)。
自己利益の確保を最優先する人間は、自己利益を効果的に確保することができない。
私がそう言っているわけではなく、ジョン・ロックやトマス・ホッブズがそう言っているのである。
私もそう思う。
同じように、人間が知的ポテンシャルを一気に向上させるのは、「自分が何をしているのかよくわかっている」ときではなく、「自分が何をしているのか、よくわからない(でも、もうすこしでわかりそう)」ときである。
学校教育とはこの「自分が何をしているのか、よくわからないけれど、なんだかもう少しでわかりそう」という状態を長期にわたって継続させることをめざして制度設計されている。
学校をめぐる「儀礼」の多くはその「わからないけど、わかりそう」というグレーゾーンに子どもをとどめおくために、きわめて巧妙に構築されているのである。
学校制度を構築している無数の「よく意味のわからないきまりごと」については、これを軽々に「合理的」判断に基づいて改廃すべきではない。
たとえば学校というのは通常「装飾性のつよい、ことごとしい建築物」であるが、これはそこが「非現実的なことがなされる場」であることを子どもたちに印象づけるための仕掛けである。
養老先生によれば、ヨーロッパにゆくと、どこの街でもいちばん豪奢なのは教会と劇場だそうである。
「そこが嘘が語られるところだから」だ、というのが養老先生のご意見である。
「この中で語られることは現実の話じゃありませんよ」ということを外見の過剰な装飾性によってあらかじめ「おことわり」しておくのである。
学校もそうだと思う。
制服が決めてあったり、時間割があったり、煩瑣な「どうでもいい規則」が定めてあるのは、そこが現実の合理的判断が適用できない場であるということをダメ押しするためである。
そういう「非現実ですよ、ここは」という枠組みがあってはじめて、子どもたちは奇想天外な話や魂をわしづかみされるような理論を聴いても、チャイムが鳴ったとたんに「魔法から覚めて」、校門から走り出て、にこやかに現実に帰還することができる。
逆のケースを考えればわかる。
もし、学校が学校みたいではなく、教師が教師みたいではなかったら、どうなるであろうか。
子どもが街を歩いていて、いきなりゆきずりの見知らぬ人に「世界の成り立ち」や「人間心理の構造」などについて、洞察に富んだ理説を聴かされたらどうなるであろう。
うっかりマルクスやフロイトの理説など聴かされたら、ひとによってはトラウマ的経験になりかねないし、いきなり家を飛び出して革命家になったりしかねない。
だいいち、めはしの利いた子どもなら、端から説教癖の大人なんか相手にしないで逃げ出してしまうであろう。
学校という「虚構」があればこそ、そこでは「現実社会ではとても言葉にされないようなこと」が堂々と言葉にされる。
教室で道学者じみた説教を垂れていた先生が、職員室にもどると、いきなり「素」に帰って、げへへと下卑た笑い声を上げる、というような「魔法解除」の装置がビルトインされているがゆえに、他では決して聴くことのできない「道学者じみた説教」を黙って拝聴し、かつその影響を受けずに済むというようなアクロバシーが可能になるのである。
学校は一種の劇場である。
そこで教師たちは「教師たちの役」を演じているのである。
そして「楽屋」の一部は必ずこどもたちに開示されている。
子どもたちは教師が「仮面」をつけ「衣装」をつけた俳優にすぎないということを知る。
だからこそ教師が教える内容は、どれほど過激であっても、どれほど間違っていても、子どもたちをそれほど深く損なうことはないのである。
もし「学校の虚構性」を構築している制度的装飾をすべてはぎとって、そこを例えば「教育商品と代価の等価交換」が行われる生の現実だというふうに提示すれば、子どもは取り返しのつかないかたちで傷つく可能性がある。
舞台の上のできごとを「100%の現実」と錯認する観客がどれほどの衝撃を受けるか想像すればよろしい。
学校の制度性・儀礼性・虚構性は子どもたちを「現実」から守るためにある。
大人たちが学校で何をしているのかよくわからない。この制度が何のためにあるのかよくわからない。
子どもたちはその「よくわからない」状態に長期にわたって置かれることによってはじめて健全な知的成熟のプロセスに載るのである。
というような話をする。
国語教育のありかたについても、いろいろとびっくりなご提言をさせていただいたのであるが、それについてはまた「講演集」が活字化されたときにでもお読みいただければと思う。
福岡の先生がたにはたいへん手厚いおもてなしをしていただいた。
みなさん、どうもありがとうございました。
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