週末は浜松

2009-11-01 dimanche

今週も「週末」がない。
先週もなかった。来週もないし、再来週もない。
週末がないということは、ずっと働きづめということである。
そりゃ風邪も引きますよ。
なぜそのような非人間的日程を組むのかと気色ばまれる向きもあるやもしれぬが、講演の日程なんて、早いのは1年半くらい前に決まっているのである。
そのときはスケジュールは「まっしろ」であるから、「あ、いいすよ」と気楽に応じてしまう。
途中からだんだん顔色が悪くなってきて、講演も寄稿も取材も必死で断り始めるのだが、「これだけは断れない種類の仕事」が一番最後にやってきて、それが「ばりばり」と時空を引き裂き、気づくとスケジュール表は「まっくろ」になっているのである。
いまだって一番最後に来たのは「自分の書いた本の販促活動」である。
これはどうしたって断れない。
こんな生活をしていては長生きできないです。ほんとに。
今週の土曜日も合気道のお稽古を泣く泣く休んで、浜松へ「教育のつどい」の特別講演のためにでかける。
甲南麻雀連盟浜松支部に連絡をし忘れていて、スーさんから「ウチダ先生、浜松に来るって本当ですか?」と訊かれたときも「まさか〜。浜松行くのにスーさんたちに連絡しないわけないじゃないですか」と答えたのであるが、実は浜松で講演をやることになっていたのである。
鳥取でも二つの高校で講演をするのであるが、ほんとうのことを言うと、この二つの高校を一つの高校だと間違えていて、「鳥取の高校ですが、講演の件で・・・」というお訊ねメールに「はいはい、だから、行きますって言ってるじゃないですか」と答えたせいで、二つ行くことになってしまったのである。
もうすこししっかり日程を管理したらどうかねと気色ばむ向きもあろうかと思うが、10月は一ヶ月で講演9回、今週なんか1週間に講演3回やるのである。
どれがどれだけわからなくなるのもしかたがない。
でも、教育関係の講演はそのあと必ず「うちの子を神戸女学院にぜひ入れたいと思います」と言ってきてくださる方がいるので、営業部長としては、たいへんにやりがいのある仕事なのである。
でも、何度も書いているとおり、2010年はもう講演はやらない。
大学最後の年であるから、岡田山から一歩も出ないで、このキャンパスの空気を満喫するのである。
新規の仕事は全部お断りである。
いまやっている連載も全部おしまい(AERA だけは養老先生とのコンビだからひとりでは決められないけど)。

というわけで、カウントダウンの中、浜松へ行く。
暑い。
もう11月だというのに、初夏のような暑さである。
地球はほんとに温暖化してるんだ。
浜松学院大学にタクシーが着くと、スーさんがちょうど来ている。
研究発表を聴いてから、登壇。
聴衆は現場の先生たちばかりなので、民主党政権になってからの教育行政の方向の変化について論じるところから始める。
まだ文科省は明確な方針転換を示してはいないが、安倍内閣のときのようなあからさまな「市場原理」による教育制度の再編はもう下火である。
でも、依然として、「エビデンス・ベースト」という基本は揺るがない。
「エビデンス・ベースト」というのは、あるプログラムの立ち上げに際して、それがどのような教育アウトカムをもたらすかを数値的・外形的にあらかじめ開示することを義務化する考えのことである。
「なんとなく、こんなことをやってみたいと思います。どういう効果があがるのはわかんないけど。なんか面白そうだし」というようなふやけた教育プログラムには生きる余地がないのである。
だが、教育の本質は「子どもを成熟に導く」ことであり、人類史が教えるのは「子どもを成熟に導く方法は子どもの数だけある」ということである。
方法を限定することは愚かなことだ。
教師は子どもたちの成熟度に応じて、個性に合わせて、言うことを変えなければならない。
無原則かつ臨機応変こそは教師の「教育力」のかんどころである。
ところが現在の教育行政は「教育力」というものを「一定の原則に基づいて、指定されたマニュアル通りにことを進める能力」だと思っている。
子どもを「かんづめ」のような工業製品だと思っていれば、なるほど「かんづめ製造工程」は、規格通りに全国一律に作動しなければならないというのは当然である。
でも、子どもは工業製品ではない。
文科省の役人は平然と子どもたちについて「人材」とか「付加価値」とかいう言葉を使うが、これは彼らが子どもたちを「工業製品」に類したものとして観念していることをはしなくも露呈している。
子どもは工業製品ではない。
共同体の「次代のフルメンバー」である。
彼らのうちの一定数が共同体を支えるに足るだけの成熟に達していただかないと、私たちの集団が保たない。
教育は彼らを成熟に導き、私たちの世界が生き残るための必須の機能である。
教育は教育を受けるものが自己利益を増大させる機会だというふうに「経済合理性」論者は主張する。
その主張に一定の真理が含まれていることを私は認めてもよい。
だが、もし、教育がすべて自己利益追求のためのものであるとすると、教育を受けることも受けないことも「受益者」自身の自己決定に委ねられることになる。
「オレは教育なんかいらねえよ」という「受益機会の放棄」の宣言に対して、私たちは絶句するしかなくなる。
そういうナマイキな子どもをはり倒して「いいから黙って勉強しろ」と言うのもまた「子どもを成熟させること」を共同体から負託されている教師の仕事のうちである。
子どもは何としても成熟させなければならない。
それは成熟が子どもに生き延びるチャンスを与えるからだけではない。
「成熟しない子どもたち」ばかりが成員になったとき、共同体が生き延びるチャンスもまた減じるからである。
「子どものままであること」は、子ども自身にとって危険であるだけでなく、そのような子どもを大量に抱え込む社会そのものにとっても危険なのである。
子どもとは「自己利益の追求だけを優先する」存在のことである。
子どもはそれでよろしい。ちびちゃんなんだから。
でも、共同体が存続するためには、「自己利益の追求と同様の熱意をもって公共の福利を配慮する」存在が一定数存在しなければならない。
それが「おとな」である。
子どもの全員が「おとな」になる必要はない。
もし、全員が「おとな」でなければ共同体が維持できないのだとしたら、それは制度設計に無理があるのである。
「おとな」は15%程度いれば足りる。
けれども15%を切ると危機的になる。
7%を切るともう共同体は保たない。
学校教育の人類学的使命はきわめて散文的に言ってしまえば、「同学齢集団から15%程度の『おとな』を創り出すこと」である。
あとの85%は子どものままで大丈夫である。
というか、その方がよいのである。
「おとな」は共同体の延命のために必須の存在であるが、「子ども」の中にもまた共同体の「ブレークスルー」をもたらすような破格な個体が混じり込んでいるからである。
もちろん85%のうちの、ほんの一握りだけれど、そういう「幼児的天才」はやはりこれもまた共同体の生き残りのためには必須の存在なのである。
教育はそのようなまったく「ありよう」の違う(でも、最終的な人類学的機能においては協働する)二種類の個体を同時に、同じ場所で、育成するためのプロセスである。
そのようなややこしいプロセスを一律の原理でコントロールできるはずがない。
それに、教師の中にも「おとな」もいれば「子ども」もまじっている。
「おとな」の教師に就いても、さっぱり成熟できない子どももいる。逆に「こども」の教師の幼児性にうんざりしてさっさと自力で「おとな」になる子どももいる。
いろいろである。
それでよろしいのである。
繰り返し言うように、子どもを成熟に導く方法は子どもの数だけある。
ただせめて、制度を総括的に管理する立場にある人間だけは、「教育は子どもを成熟させ、共同体を維持するための装置である」という基礎的事実を肚にきちんと納めておいていただきたいと思う。
それは教育を自己利益追求の場として、まるごと市場原理に委ねることではないし、反対に、教育をつうじて滅私奉公するファナティックな愛国者を育てようとすることでもない。
市場原理主義者も、イデオロギー教育主義者も、どちらも、こどもの幼児性を強化し、成熟を阻止しようとすることにおいて双生児のようによく似ているからである。
現場の先生がたはよくおわかりくださったようであるが、果たしてこの理路が教育行政の当事者たちに通じるであろうか。
講演後、浜松支部の諸君および浜名湖道場の合気道道友諸君、および当地における読者のみなさまと、午後4時からビールが飲める店に雪崩れ込んで、プチ打ち上げ。
いろいろとご質問にお答えする「子ども電話相談室」状態となる。
浜松のみなさん、ご歓待、どうもありがとうございました。
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