まだ風邪が癒えない。
鼻水がじゅるじゅる垂れて、ときどき咳き込むが、それ以外はまあ標準的である。
バジリコから『邪悪なものの鎮め方』の初校ゲラが出る。
タイトルはむかしの企画の流用だが、中身は「コンピレーション本」。
ただし今回は「霊」や「呪い」やその解除についての逸話が「狂言廻し」のような役割を果たして、テクストを繋いでいる。
自分でいうのもなんだけれど、たいへんに面白い。
ゲラを読み始めたら止まらなくなって、一気に読んでしまった。
これはやはり編集の妙というべきであろう。
読んでみてわかったのは、私が「同じ話」ばかりしているということである。
自分では気づかないのだが、たしかにブログには同じ話ばかり書いているようである。
注文原稿の場合は、同じ話の使い回しは原則的にはできない。
二重投稿というのは、プライオリティが重んじられる世界では禁忌だからである。
でも、ブログは別にそういう「しばり」があるわけではない。
だから、だいぶボケが進んだ老人のように、同じ話を何回も何回も繰り返しても、別に誰からも苦情は出ない(実際には「また、ウチダが同じ話書いてるぜ」というようなやりとりがバックステージではなされているのであろうがが、私の耳には届かない。私の耳に届かなければ、苦情は存在しないも同然である)。
でも、私が同じ話を繰り返すのは、「高度」を稼ぐためなのである。
山を登るのと同じである。
高く峻険な山は直登することはできない。螺旋状にぐるぐる回りながら高度を稼ぐのである。
一周まわると、前と同じ景色のところに出る。
「あら、また同じ話だ」というのは、「前と同じ景色」の尾根に出たことを意味している。
でも、スパイラルで一周した分だけ前よりも高度が上がり、見えるものの射程が拡がり、空気が澄んだ分だけ解像度も上がっているのである。
それだけ高く峻険な山を登っているのだとご理解いただきたい。
『邪悪なものの鎮め方』は年末か来年のはじめくらいに出る。
炬燵でごろ寝しながら読んでください。
新潮社の『日本辺境論』は11月14日発売と決まった。
バウンドプルーフを重刷したというので、新潮社営業の気合いの入り方が窺える。販促キャンペーンもいろいろ計画されているようである。
『日本辺境論』は久しぶりの書き下ろしである。
ワンテーマで原稿用紙250枚一気書きというのは、ブログでの「同じ話の繰り返し」による登山的な思考とは別の種類の「思考の運動」を要求する。
ブログが登山とすると、新書一気書きは素潜りのような感じである。
手持ちの肺活量でどこまで深く潜れるか。
「機の時間論」と「道の有効性と限界」いうあたりがたぶんいちばん深く潜ったところである。
今もう一度そこまで潜ってみせろと言われても、急には無理である。
あと2週間で発売である。
みなさん、ぜひお買い求めくださいね。とっても面白いです。
水曜日の午後に芦屋の公民館の「芦屋川カレッジ」で「村上春樹にご用心2009」という講演をする。
去年やった講演の続きである。
体調が悪くて、準備も不十分だったので、「村上春樹に父親から遺贈された『中国をめぐる空虚』」というテーマで話し始めたのだが、途中で行き詰まってしまった。
父親のトラウマ的体験を「それについては何も語らない」という仕方で遺贈された息子にとって、「父のトラウマ的経験」は、「トラウマ」と呼ぶことが出来ない。
というのは、トラウマというのは語義的には「実際に経験したはずなのだが、それを言語化して、自己史の正史に登録することができない経験」のことだからである。
ただし、フロイトがヒステリー症例研究で指摘したように、トラウマ的経験の中には「実は経験していないこと」が含まれている。
「実は経験していないこと」を「私は『何か言葉にできないようなこと』を経験した」と思っていて、その「経験したはずなのだが、どうしてもそれを言葉にできない不能」に苦しんで、それが人格の骨格をかたちづくってしまっているというトラウマの病態が存在する。
村上春樹における「中国」はそのような種類のトラウマではないのか。
その場合、「実は経験していないこと」を「物語」として語り、ありありと現前させるというのは、このトラウマから離脱するための効果的な方法でありうるのではないか。
村上春樹がやっているのは「そういうこと」ではないのか。
司馬遼太郎がノモンハン事件を描けず、村上春樹が描けたのは、「経験していないこと」について妄想的に細部まできっちりと描くことの方が、「多少とでも経験したこと」に基づいて「リアリティ」を重んじて描くことよりも、脱-トラウマ的な営みの「王道」だからではないのか。
というような話をしようとしたのであるが、しゃべっている自分自身が何を言っているのかよくわからない話なので、聴いているみなさんはほんとうに気の毒でした。どうもすみません。
風邪で頭がまだちゃんと回らなくて。
金曜日は授業と会議のあと、朝カルへ。
関川夏央さんの『坂の上の雲』論講義がある。
朝カルで受講者席に座るのは、甲野先生のとき以来だから、6,7年ぶりである。もっとかな。
関川さんは翌日から本学の集中講義にご出講なので、そのお礼のご挨拶をかねてでかけたのである。
講義はたいへんに面白かった。
大衆小説と純文学をめぐる日本近代文学史の「ねじれ」についてお話しをうかがったが、東海散士の『佳人之奇遇』から始まる(後継者のいない)「全体小説」の系譜を司馬遼太郎が受け継いだのでは・・・という仮説に驚倒する。
なるほど、そうだったのか。
森鷗外が「政治小説」を書き、夏目漱石が「経済小説」を書いた、というご指摘もサプライズであった。
なるほど、いや、その通りである。たしかに漱石を読むと、明治人の経済感覚が知れる。
講義後、朝日の甲斐さん、モリモトさん、大迫くん、東川さん、その同僚の二宮さんらとつれだって、北新地でプチ打ち上げ。
ほんらいであれば、私が関川先生をご接待申し上げなければならない筋なのであるが、気がついたら、朝日新聞社と関川先生にごちそうになってしまった。
ごちそうさまでした〜
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(2009-10-31 09:49)