ヒップホップと司馬遼太郎と村上春樹

2009-10-06 mardi

3回生のゼミ発表は「ヒップホップ」。
実は「ヒップホップ」という音楽概念が私にはよくわからない。
そんなことを言えば「ロック」も「ポップス」一義的な概念規定があるわけではない。
たぶんそういうのは「空気」で何となく決まるのだろう。
アメリカの音楽マーケットにおける「ヒップホップ」は、それと排他的に競合する他の音楽ジャンルとの差別化の中で位置づけられているはずである。
もしかするとヒップホップの本質的な競合相手は隣接ジャンルではなく、「クリスチャン・ロック」とかカントリーとか日本ではほとんど聴かれないジャンルの音楽じゃないかという気がする。
労働、家族、信仰、祖国愛、自然・・・そういうものの価値をまっこうから否定する音楽があれば、アメリカにおける「対抗文化」として広範な支持者を得ることができる。
ヒップホップというのは「そういうもの」ではないかと思う。
興味深いのは「対抗文化」は世界的に知られ、それぞれの社会にアダプトされるけれど、「メインストリーム」の方はアメリカから一歩も出ないということである。
フランスにはフランスのヒップホップがあり、日本にも韓国にも中国にも「地場のヒップホップ」がある。
「対抗文化」的な音楽は世界標準的に共有されるが、それぞれの社会の「メインストリームの音楽」はその国の中でしか費消されない。
どういう音楽がその国の「固有音」かということは、それが「国外には愛好者をほとんど持たない」ということによって知られる。
そういうことではないかと思う。
カントリーミュージックというのはアメリカ中西部の固有の音楽であり、ほとんどそこでしか聴かれない。
村上春樹さんによると、ボストンからロサンゼルスまでドライブすると、アパラチア山脈からロッキー山脈までの間を走行する間、どのFM局もカントリーしかかけないそうである(気が狂いそうになるらしい)。
カントリーミュージックを愛好する外国人はほとんど存在しない。
例外は二国だけで、それは日本とドイツである。
理由はわかりますね。
戦後に「進駐軍」が長期にわたって国内に滞在したからである(「ヨーロッパでは、ドイツ人だけがカントリー好き」ということはたしか大瀧詠一さんに教えていただいたはずである)。
それと同じで、ある国の文化的作物のうち、「その国固有」のものであるかどうかを判定する基準は「国外に愛好者を持たない」ということではないかと私は思っている。
例えば、司馬遼太郎は日本の「国民作家」であり、吉本隆明は日本の「国民思想家」である。
ご異論のある方はおられぬであろう。
その司馬遼太郎は英語訳が三点しかない。
『最後の将軍』と『韃靼疾風録』と『空海の風景』だけ。
『竜馬がゆく』も『坂の上の雲』も『燃えよ剣』も『街道をゆく』も翻訳がないのである。
日本人の心性と価値観と美意識をみごとに描いたこれらの文章に非日本人はまったく関心を示さないのである。
吉本隆明が戦後日本思想を「知る」上で必須の文献であることに異論のある人はいないであろう。
その吉本隆明の著作は外国語訳が一つもない。
『擬制の終焉』も『自立の思想的拠点』も『共同幻想論』も『言語にとって美とは何か』もどれも外国語に訳されていないのである(加藤典洋さんに聴いた話では『共同幻想論』は以前フランス語訳が存在したそうであるが、いまは絶版)。
海外旅行の間に、ふっと「司馬遼太郎が読みたい」とか「藤沢周平が読みたい」とか「吉行淳之介が読みたい」とか「島尾敏雄が読みたい」思うことだってあると思うけれど(ないかな)、現地の本屋にはないのである。
でも、村上春樹はある。
たくさん並んでいる。
司馬遼太郎と村上春樹はどこが違うのか。
もしかすると、「対抗文化」だけが世界性を持ちうるということなのであろうか。
ヒップホップの話を聴きながら、そんなことを考えた。

新潮社の足立さんと三重さんが再校ゲラのピックアップをかねて、『日本辺境論』の販促活動の相談に来られる。
北口の並木屋で美味しいものを食べながら、おしゃべり。
帯文は養老先生にお願いすることになった。
新書の刊行は11月。
考えてみれば、今年はこれしか書いていない。
『街場の教育論』と『橋本治と内田樹』が去年の11月、『昭和のエートス』が12月に出て、それから1年は既刊の文庫化がいくつかあっただけで、新しい本は出してない。
これ一冊で今年はおしまいである。
というわけですから、みなさん出たらぜひ買ってくださいね。
自分で言うのも何ですが、再校ゲラを読んでも、やっぱり面白い。
『寝ながら学べる構造主義』は3000部ずつ27刷、蛇口から水が漏れるようにして10万部出た。
『寝な構』みたいに、一過性の話題にはならないけれど、少しずつでいつまでも新しい読者を惹きつける本になって欲しい。
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