金曜日はゼミが一つと会議が三つと杖道の稽古。
1年生の基礎ゼミの第一回目。
この何年か、1年生のゼミが面白い。
大学のゼミってどういうものだろう。なんだか知らないけれど、食いつこうという「前のめり感」があって、こちらもそういうのには弱いので、つられて前のめりになってしまう。
最初は「ゼミとは何か」ということについてお話しする。
でも、実は私にも「ゼミとは何か」ということがよくわかっているわけではない。
だから、毎年言うことが変わる。
今回はふと口を衝いて「ゼミの目的は自分の知性に対して敬意をもつ仕方を学ぶことです」と申し上げてしまう。
言ってみてから、そういえばそうだなと思う。
ポランニーの「暗黙知」(Tacit Knowing) も、カントの「先験的統覚」も、フッサールの「超越論的直観」も要するに、「私は自分の知らないことを知っている」という事態を説明するためにつくられた言葉である。
古来賢人たちは必ず「どうして私はこんなに賢いのか」という問いに遭遇した。
遭遇するに決まっている。
自分の賢い所以をすらすらと自力で説明できる(「やっぱ、子どものときにネギぎょうさん喰うたからやないですか」とか)ような人間は「賢者」とは言われない。
真の賢者は恐ろしいほどに頭がいいので、他の人がわからないことがすらすらわかるばかりか、自分がわかるはずのないこと(それについてそれまで一度も勉強したこともないし、興味をもったことさえないこと)についても、「あ、それはね」といきなりわかってしまう。
だから、自分でだって「ぎくり」とするはずなのである。
何でわかっちゃうんだろう。
そして、どうやらわれわれの知性というのは「二重底」になっているらしいということに思い至る。
私たちは自分の知らないことを知っている。
自分が知っていることについても、どうしてそれを知っているのかを知らない。
私たちが「問題」として意識するのは、その解き方が「なんとなくわかるような気がする」ものだけである。
なぜ、解いてもいないのに、「解けそうな気がする」のか。
それは解答するに先立って、私たちの知性の暗黙の次元がそれを「先駆的に解いている」からである。
私たちが寝入っている夜中に「こびとさん」が「じゃがいもの皮むき」をしてご飯の支度をしてくれているように、「二重底」の裏側のこちらからは見えないところで、「何か」がこつこつと「下ごしらえ」の仕事をしているのである。
そういう「こびとさん」的なものが「いる」と思っている人と思っていない人がいる。
「こびとさん」がいて、いつもこつこつ働いてくれているおかげで自分の心身が今日も順調に活動しているのだと思っている人は、「どうやったら『こびとさん』は明日も機嫌良く仕事をしてくれるだろう」と考える。
暴飲暴食を控え、夜はぐっすり眠り、適度の運動をして・・・くらいのことはとりあえずしてみる。
それが有効かどうかわからないけれど、身体的リソースを「私」が使い切ってしまうと、「こびとさん」のシェアが減るかもしれないというふうには考える。
「こびとさん」なんかいなくて、自分の労働はまるごと自分の努力の成果であり、それゆえ、自分の労働がうみだした利益を私はすべて占有する権利があると思っている人はそんなことを考えない。
けれども、自分の労働を無言でサポートしてくれているものに対する感謝の気持ちを忘れて、活動がもたらすものをすべて占有的に享受し、費消していると、そのうちサポートはなくなる。
「こびとさん」が餓死してしまったのである。
知的な人が陥る「スランプ」の多くは「こびとさんの死」のことである。
「こびとさん」へのフィードを忘れたことで、「自分の手持ちのものしか手元にない」状態に置き去りにされることがスランプである。
スランプというのは「自分にできることができなくなる」わけではない。
「自分にできること」はいつだってできる。
そうではなくて「自分にできるはずがないのにもかかわらず、できていたこと」ができなくなるのが「スランプ」なのである。
それはそれまで「こびとさん」がしていてくれた仕事だったのである。
私が基礎ゼミの学生たちに「自分の知性に対して敬意をもつ」と言ったときに言いたかったのは、君たちの知性の活動を見えないところで下支えしてくれているこの「こびとさん」たちへの気遣いを忘れずに、ということであった。
それは同じ台所を夜と昼で使い分けをしている二組のクルーの関係に似ている。
昼のクルーがゴミを散らかし、腐った食材を置きっぱなしにし、調味料が切れても買い足ししておかないと、夜来た「こびとさん」たちは仕事がしにくくて困るだろう。
だから、自分のパートが終わるときには、「こびとさん」のためにちゃんとお掃除をしておいた方がいい。
そういう気遣いを自分自身の知性の「二重底の下の世界」でこつこつ働いている「何か」に対して示すこと。
それはほんとうに、ほんとうにたいせつなことなのである。
そんなことを言ってもわからない人にはぜんぜんわからないだろうけれど。
私には私の「こびとさん」がいる。
わりと個性的な方である。
「怒りっぽい」のである。
世の中のさまざまな不条理についてすぐにむかっ腹を立てる。
「おいおい、それはちょいと話の筋目がおかしいんじゃねえかい。人というものはね」というようなことをすぐに言い出す。
言い出すと後に引かない。
その点を除くと、たいへん働き者で、総じて上機嫌ないいやつである。
だから、私の主たる仕事は「こびとさんを怒らせないこと」である。
それさえちゃんとしておけば、私の「こびとさん」はほんとうに働き者である。
いつもは私の「ゴーストライター」として原稿を書き飛ばしている。その速度たるや、横で眺めている私が驚嘆するほどである。
おまけに彼は原稿料や印税を要求しないのである。
「そういうものはウチダくんがとっておきたまえ」とまことに太っ腹である。
合気道の道場もこの「こびとさん」に建ててもらったようなものである(まだ建ってないけど)。
学生諸君ひとりひとりの中にも小さな「こびとさん」がいる。
自分の「こびとさん」にどうやって機嫌よく仕事をしてもらうか。
それについてひとりひとりでしっかり工夫を凝らしていただきたいと思う。
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(2009-10-03 17:26)