夏の終わりに

2009-09-01 mardi

夏休みらしいことが何も起こらないうちに、夏が終わってしまった。
切ない。
温泉に二回ゆき、麻雀を14半荘やった。
試写会で『サブウェイ123』を観た。
演武会をやり、うちで宴会をやった。
歯を13本抜いた。
特記事項はそれくらい。歯を抜いたのは「休み中じゃないと無理」だからで、その意味で「いかにも夏休みらしい」イベントとしてここに記したのであって、別に「楽しかった」という意味ではない(楽しいわけないよね)。
あとは講演と原稿書きで明け暮れた。
『日本辺境論』初稿を書きあげて、ただいま推敲中。
この「推敲」という仕事はわりと楽しい。
もう原稿は書き上がっていて、締め切りまで一週間残しているから、その点ではいらいらしたり、不安になったりということはない。
これなら本にして世に問うてもよろしいであろうという程度のクオリティには達している。
あとは、できうるかぎり「リーダーフレンドリー」に書き直す。
「リーダーフレンドリーネス」というのは、コンテンツの問題というよりは「呼吸」の問題である。
易しい話でも、書き手と読み手の呼吸が合わないと意味がわからない。
逆に、ややこしい話でも、呼吸が合えば、一気に読める。
「一気に読める」というのと「わかる」というのは次元が違う出来事である。
わからなくても読めればいいのである。
何の話かよくわからないのだが、するすると読めてしまうということはある。
意味はわからないが、フィジカルには「入る」。
ロックミュージックで、歌詞は聞き取れないが、サウンドには「乗れる」というのと似ている。
そのような読みの方がむしろ「深い」とも言える。
歌詞は忘れても、サウンドの方はお風呂に入っているときにふと鼻歌に出たりする。
同じように、誰のどんな本で読んだのか忘れてしまったけれど、何かのおりにふと口を衝いて「だって、日本て、ほら辺境だし」というような言葉がすらすらと出てしまうということはある。
私はどんな論件についても、自分の知見にオリジナリティがあると思っていない(今回の本も、ほとんど先賢からの受け売りである)。
だから、真似するなとかコピーライトが蜂の頭とかややこしいことは言わない(というより言えない)。
印税はいただきますけど、それはコンテンツについてプライオリティがあるということではなく、読者への差し出し方に「工夫」があり、それについての「手間賃」ということでご了承願っているのである。
今回の『日本辺境論』で私が読者のみなさんにお伝えしたいのは、おもに、丸山眞男の超国主義論と、澤庵禅師の「石火の機」、養老孟司先生の「マンガ論」である。
それぞれを「辺境人の性格論」「辺境人の時間論」「辺境人の言語論」として私がまとめてみたのである。
日本人の国民性格を「辺境」という視点から論じたものは多いが、日本人の時間意識や言語構造までをも「辺境」がらみで論じたものは管見の及ぶ限り読んだことがない。
けれども、お読みいただければ、「そういわれてみれば、そうかも・・・」というアイディアがいくつかはみつかると思う(希望的観測)。
アイディアそのものはもう書いてしまったので、あとはそれを「一気読み」できるようにつなぐ仕事が残っている。
頭から一気に書き直して、細かい話はともかく「ぐいぐい」読めるように「道を通して」しまうのである。
この作業は毎日「頭から」始める。
「昨日の続き」から始めるとうまくゆかない。
それを書くと袋小路に入り込んでしまうことがある。
袋小路は袋小路で、それなりに面白いことがあるのだが、「ぐいぐい」の邪魔になる。
だから、毎日1頁目から書き直す。
廊下にワックスがけをしているようなもので、繰り返しているうちにだんだん最初の方は「通り」がよくなる。
先の方まで滑って行って、滑りが悪くて雑巾がひっかかるところに来たら、そこに腰をすえて、ごしごし磨く。
磨いたら先に進む。
それを毎日繰り返す。
理論的には、それで最後までワックスをかけ終わったら、読者もまた1頁目を開いたら、あとはずるっと一気に最後まで滑るはずである。
そういう本を書きたい。
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