クレーマー親との戦い

2009-08-28 vendredi

月曜は大学で会議。
入試制度の定員についての議論。
現在の制度は、できるだけ入試制度の種類を増やして、多様なタイプの志願者を受け容れるという「生物学的多様性」理論と、できるだけ入試回数を増やして、志願者数を確保するという「地引き網」理論のアマルガムである。
前者は教授会の支持を、後者は理事会の指示をとりつけるため説明である。
どちらも掬すべき説明ではあるが、やはり入試制度はもう少しシンプルな方がいい。
ひとつは入試のフェアネスを担保するためである。
制度ごとに難易度が違い、中には学力のかなり低い志願者をスクリーニングできない制度がある。あまり学力が低い学生は入学後の授業についていけないし、「あんな子でも受かるの?」ということが口コミで伝わると大学のブランドイメージにかかわる。
ひとつは入試業務の負荷が過重になると、教職員の日常業務に支障が出るからである。
現在本学には AO、クローバー、公募推薦、指定校推薦、特別指定校推薦、一般 A 日程、B 日程、C 日程、D 日程、後期、センター利用と11種類の入試がある(加えて1月にはセンター入試もある)。
作問、印刷、校正、点検、書類選考、面接、入試、採点、答案管理、合否判定・・・とそのひとつひとつに付帯する業務もかなりな量に及ぶ。
20 年前に本学に赴任したころは、秋に推薦入試、春先に一般入試と二回しか入試がなかった。入試業務が忙しいというようなことはありえなかった。
だいたい、入試業務そのものが教務部長の管轄だったのである。
とにかく入試制度が多すぎて、どの制度がどういう試験を行うのか専任の教職員でも言えないくらいである。
これはよろしくない。
というので入試部長権限で、制度を一気にスリム化してしまおうと企てているのであるが、こういうものは一回始めると惰性がついてなかなか変えられない。
「これはちょっとまずいなあ・・・」と思っても、「朝令暮改」的な制度変更は大学のアドミッション・ポリシーがいかにも腰が決まっていないように見えるし、高校サイドからもクレームがつく。
むずかしいものである。
でも、退職前の置きみやげに入試制度の簡素化の布石は打っておきたい。

火曜日、水曜日は甲南麻雀連盟浜松支部主宰の恒例「城崎温泉ツァー」にかんきちくんとともに参加。
スーさんは前夜三宮で大学院聴講生グループ(ナガミツ、シャドー影浦、かんきち)とヒラオくんで痛飲したそうで、ぼろぼろの二日酔いで登場。オノちゃん、ヨッシー、シンムラくん、それに新人のオータくんが長駆浜松から。オーツボくん、ヤイリくんはお休み。
いつものように出石でおそばを食べて、城崎へ。
荷物を置いて「御所の湯」へ。
宿にもどってさっそく麻雀。
本部の例会は6月を最後に開催されていないのであるが、総長だけは8月に2回も温泉麻雀を楽しんで会員諸君には申し訳ないことである。でもね、ほんとに忙しいのよ。
4戦1勝(3回3着)でプラ6(とほほ)。
ここ1番の勝負どころというのが半荘終盤に必ず1回はあって、それを制すれば僅差でトップという局面で、いつも引きが弱い。
しかし、一時の「ドツボ」状態からは脱したようである。
ご飯を食べながら、教育現場からの貴重なご報告を伺う。
クレーマー親の驚くべき事例について生々しい話を聞く。
ほとんど極道の「追い込み」と変わらないような陰湿で粘着的な手口で教師を追い詰めてゆく。
あまりに態度が悪くて、ついに恐喝と威力業務妨害が適用されて警察に逮捕されてしまった親さえいるそうである。
別にやくざでもなんでもない一般市民が教師相手になると、極道まがいのロジックを駆使することをためらわないというのはどういうことであろう。
私も教務部長のときにずいぶんクレーマー親の相手をしたけれど、この諸君の「因縁のつけ方」というのはある種の洗練に達していた。
極道と同じで、わずかな瑕疵をみつけて、そこについての事実認知と謝罪を要求する。それに応じると、後はそれを足がかりにして、どんどんと要求を吊り上げてゆく。そして、こちらが応じられないというと、「あんた、さっき謝ったでしょう。大学に非があると言ったでしょう」と目を三角にして怒り出す・・・
困ったことに極道は「悪いことをしている」という自覚があるが、クレーマー親にはその自覚がないことである。彼らは大学という官僚的で非人間的な機構の横暴に対して、徒手空拳で正義の実現を求めている「受難者」という立場を空想的に先取りしている。
だから、まるでネゴシエーションにならない。
だからこちらの対応がだんだんフレンドリーでなくなってゆくのもやむを得ないのである。
まず自分は「システムの被害者」であるという名乗りから社会関係を説明しようとする一般的傾向を何とか食い止めないと、この社会はますます住みにくくなる。
そのためにはまずメディアが「被害者目線」であらゆる問題を論じる態度を改めるべきであろうと思う。ほんとに。
舞鶴道までごいっしょして、神戸でお別れ。
家に戻って昼寝をしてから、原稿書き。
『日本辺境論』の書き直し作業。1万字ほど削る。
あと1万字削れば終わり。それでも14万字ある。
『日本辺境論』は自分でいうのもなんだけれど、たいへん面白い。
日本人の宗教性も、組織原理も、政策決定も、文学も、すべては「辺境」の、それも「辺境の言語構造」に由来するという荒唐無稽の奇論怪説なのであるが、書いている本人が読み直して「そんな話があるかい・・・・う、でも、ほんとにそうかも」と説得されてしまうくらいに筋が通っているのである。
これはぜひ買って読んでいただかねば。
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