ミネソタから北浜へ

2009-08-24 lundi

土曜日は早起きして原稿書き。それから合気道のお稽古。
ヤベとおいちゃんのヘンリ・シブリー高校時代の教え子のマックスくんが、南山大学に留学生として来日して、さっそく旧師を訊ねて、ついでに合気道のお稽古に来る(ヤベとおいちゃんはミネソタの高校で日本語だけではなく、合気道も教えていたのである)。
彼の地の高校生たちは6年二代にわたる自分たちの日本語の先生がどちらも合気道の有段者であったことから「日本人はみな合気道をするものだ」という誤った日本観を扶植されたのではないかと心配である(別にそう思われても私は少しも困らないが)。
だいぶ以前、ヘンリー・シブリー高校に赴任することになったときに、ヤベくんが「今度ミネソタの高校に行きます」と挨拶に来たことがあった。
「ふうん、ミネソタね・・・あのさ、ミネソタって、いうとやっぱ卵?」と言うと、ヤベがにわかに顔をこわばらせて、「どうして先生くらいの年齢の人たちって、『ミネソタ』という州名を言うと、自動的に『卵』の話を始めるんですか?」と反問してきた。
これはすまぬことをした。
若いヤベくんにはわかるまいが、われわれ 1950 年前後生まれのものが幼児期にラジオで聴いた音楽のうちにはトラウマ的に深くわれわれ記憶に刻み込まれたものがある。
「死んだはずだよお富さん」とか「ウーシュクダラ、ヒンデリカ、アダラミーヤンムー」とか、いろいろね。
その中に「ココココ、コケッコー、わたしはミネソタの卵売り」という印象深いフレーズがあった。
暁テル子さんという人が歌っていた。
この忘れがたいフレーズの作曲者は渡久地政信(おや、「お富さん」と一緒だ)。
あるいは、われわれの世代にとって渡久地政信というのはリーバー&ストーラー「みたいなもの」だったのかもしれない。
それはさておき。
「ミネソタの卵売り」は1951年2月発売であるから、ラジオで頻繁にかかっていたのは、おそらく私が二三歳くらいの頃のことではなかったかと思う。
「ココココ、コケッコ」というフレーズが子どもの耳にはたいへん覚えやすかったのであろう。
ともかくウシュクダラとミネソタは私が生まれて最初に覚えた地名だったのである。
そのインパクトは半世紀を閲しても変わることはない。
おそらくこれまでミネソタ州を訪れた 1950 年生まれ以上の人の多くは、レストランでふと「卵料理」のメニューを探した経験をお持ちなのではあるまいか。
私ならきっとオムレツかなんか頼んで、「うむさすがミネソタの卵は美味いわ」とひとりごちたような気がする。
そんなミネソタからやってきたマックスくんはさすがヤベおいちゃんの薫陶よろしきを得ただけあって、まことにフレンドリーな少年であった。
家に戻って原稿書きの続き。それから朝日カルチャーセンターで守伸二郎さん、高橋佳三さん、平尾剛さんと四人で「監督術」のトークセッション。
これは前にやった対談シリーズ「武術的立場」のスピンオフ企画で、三人のゲストをまとめてお招きして(といっても私がお招きするわけではなく、朝日新聞社がお招きくださるのであるが)、ようようおひさしぶりと久闊を叙す「帰ってきた武術的立場な男たち」シリーズの第二弾なのである。
4人で90分だから、一人のノルマは20分ちょっとである。
他の人が長く話してくれれば、それだけ自分のノルマは減る(でもギャラは同額)。
当然、全員ができるだけ他の人に長く話させようとする。
そのためには、聴く側は目をきらきらさせて、「うんうん」と激しく頷き、全身で「おっもしろい〜」的リアクションをするのがもっとも効果的である。
だから、誰か一人が話し始めると、あとの三人は「うんうんそうそう」と激しくうなずき、「わははは〜」と受けまくるようになる。
テレビの討論番組と逆の構造である。
不思議なもので、みんながお互いに受けまくっていたら、あっというまに終わってしまった。
それからいつものように北新地でプチ打ち上げ。
みなさんまた来年ね〜。
山下さん、守さん、おうどんいつもありがとうございました。

日曜日も朝から原稿書き。
『日本辺境論』、初稿を書き終わる。
16万字。これでは新書にならない(厚すぎて)。
13万字くらいまで削らないといけない。ただちにまた頭から書き直しを始める。
しかし、一応全体の構成が完成しているので、書き直しの作業は楽である。
話がくどいところ、繰り返しやわかりにくいたとえ話(というのが多いのだ)を削るだけである。
午後、芦屋のイタリアンレストランで、成瀬雅春先生の出版記念パーティにゲスト参加。
成瀬先生と対談するのは春に「秘伝」のためにロング対談をしたので、これで4回目である。
先生手作りの数珠をいただく。108の珠のひとつひとつに成瀬先生のマントラが仕込んであるので、たいへん御利益がありそうである。
対談を終えて、ばたばたと北浜へ。
今度は、大倉流小鼓の久田舜一郎先生の松月会の打ち上げにゲスト参加。
久田先生は結婚式で月下氷人の労をとっていただいたので、お礼のご挨拶かたがた同門のみなさまにお礼を申し上げる。
そのまま二次会でミナミに拉致され、意識朦朧となるまで飲む。
それでも無事に家に戻れたところをみると、成瀬先生の数珠の効果が早速出たようである。
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