日本はどこへ行くのか

2009-08-06 jeudi

先週、毎日新聞の論説委員の広岩さんが見えて、「平和を語る」というお題で、しばらくお話をした。
広岩さんは何年か前に私が毎日新聞の紙面批評を頼まれたときに、司会をしてくれた人である。
たいへん冷静で目配りのゆきとどいたジャーナリスだった。
それからは毎日新聞で広岩さんの署名記事があると、まじめに読むようにしている。
お会いしたとき、広岩さんは日本の言論の急速な「右傾化」にずいぶん心を痛めていた。
とくに一部で突出している核武装論と、それに対する若者たちの無警戒に危機感を示しておられたので、もっぱら話題はそれに終始した。
先日、テレビの政治討論番組で、あるジャーナリストが、日本に外交力がないのは、軍事の裏付けがないからである。防衛にもっと金をかけなければ、日本は隣国から侮られるばかりであると主張していた。
それは違うと思う。
日本が外交的に国際社会で侮られているのは事実であるが、それは軍事力の裏付けがないからではない。
日本の国防予算は世界第四位である。
日本の上にいるのはアメリカ、ロシア、中国の三国。
「軍事力即外交力」というロジックが成り立つなら、日本はこの三国には侮られても当然だが、それ以外の諸国には侮られてはいないはずである。
しかし、現に侮られている。
国際社会で「日本の外交戦略を拝聴して、ぜひその叡智を掬したい」という態度を保っている国はきわめて少ない。
それは日本が軍事力に劣っているからではない。
国際社会に向けて発信すべきいかなる「ヴィジョン」も有していないからである。
日本が国際社会に向けて述べているのは「愚痴」と「不満」だけである。
たしかに日本にとっては切実な「愚痴」であり、「不満」であろうが、他国にとっては「悪いけど、ひとごと」である。
我が国の国際戦略(などというものはないのだが、あるとして)に対して同意や共感や支援を得ようとするとき、日本は結局はいつも「金をつかませる」という方法しか思いつかない。
利益誘導して「日本を支持すると、こんな『いいこと』がありますよ」という「にんじん」を示すことでしか、国際社会における支持者を作ることができない。
その「志の低さ」が国際社会の侮りを受けているのである。
だから、日本が金をばらまけばばらまくほど日本に対する侮りは深まる。
湾岸戦争のときに、日本は巨額の戦費を供出した。
これに対して国際社会は感謝を示さなかった。
これをわが国の政治家やジャーナリストは「人的貢献をしないで、金だけ出したからバカにされたのだ。次からは日本人の血を流さなければダメだ」と言い立てた。
いわゆる「国際社会の笑いもの」論である。
多国籍軍はイラクに侵略されたクウェートを支援するために軍事介入した。クウェート政府は戦争終了後に、支援各国に感謝決議を出した。そのときに、日本の名はそこになかった。
しかし、その理由は「国際社会の笑いもの」論者たちが言うように「金しか出さなかった」からではない。
日本はたくさんの戦費を出したのだ。
ただ、出した金のほとんどをアメリカが持って行ってしまったのである。
当初援助額である 90 億ドル(1 兆 2,000 億円)のうち、クウェートに渡ったのは 6 億 3 千万円であった。あとはアメリカが持っていった。
国際社会は、「国際貢献」という名分でアメリカに「転がされた」日本の愚鈍を笑ったのである。
その反省がイラク派兵における「人的貢献」である。
今回の派兵に対してはイラク政府から感謝決議をもらうことが日本政府の年来の悲願なのである。
しかし、「感謝決議をもらうために派兵する国」を国際社会が尊敬のまなざしで見上げるであろうか。
私は懐疑的である。
国際社会が評価するのは「これからの世界はどうあるべきか」について、国益の異なる諸国を投企的に統合するような「大きな物語」を語ることのできる政治思想と行動だけである。
どれほど主観的には切実であろうとも、「愚痴」や「不満」や「見返り」のような「せこい」話しかしない国が、そのスーパーリアルな態度によって諸国からの敬意を得ることはありえない。
敬意が得られない国は、どんな場合も、指導力を発揮することはできない。
当たり前のことである。
かつてシンガポールのリ・クワン・ユーやマレーシアのマハティールや台湾の李登輝は小国の指導者ながら、繰り返し国際社会からその政治的意見を求められ、世界のメディアはその発言を報道した。
それはシンガポールやマレーシアンや台湾が中国に比肩するような軍事大国だったからではないし、経済大国だったからでもない。
彼らがそれぞれに「あるべき東アジアのヴィジョン」を語ったからである。
国際社会が敬意を示すのは一国の軍事力ではなく、その軍事力を導く世界戦略の「大きさ」に対してである。
もし、軍事力に裏付けられた外交だけが他国からの敬意を担保するというロジックがほんとうなら、日本は世界で中国の次に尊敬され、どのような国際会議でも「アメリカ、ロシア、中国」の次に発言を求められてしかるべきであり、イギリス、フランス、ドイツよりも「威信ランキング」において上位に置かれてよいはずである。
だが、そうなっていない。
これはどういうわけなのか。
誰か説明してくれるのだろうか。
「核武装していないから」という遁辞をおそらくはご用意されているのであろう。
防衛費世界四位といっても、核がないんだから、そんなのは無意味な数字だと言う人がいる。
あるいは防衛費のほとんどは人件費で消えてしまい、軍備には充当されていないからそんなのは無意味な数字だとも言われる。
なるほど。
防衛次官の横領分や商社へのキックバック(そのせいで武器購入費は非常に割高になっている)もむろん軍備の充実には資するところがない。これも防衛費からは控除した方がいいだろう。
ということは私たちが知っている防衛費というのはおおかた「無意味な数字」だということになる。
で、その場合、「無意味な数字」が「多い」とか「少ない」ということを言えるのはどのような数値的根拠によるのであろうか。
核武装したとしよう。
アメリカとロシアと中国の反対を押し切って、核武装した。
さて、その上で日本はいったい何を世界に対して告げようというのであろうか。
どのような「あるべき世界のヴィジョン」を語るつもりなのであろうか。
「これで北朝鮮のミサイルがきても報復できるぞ」「中国が東シナ海のガス田に手を出しても韓国が竹島を占領しても報復するぞ」と世界に向けて誇らしげにカミングアウトしたいという気持ちはわからないでもない。
けれども、それを聴いて「ああ、すばらしい。『やられたら、やりかえせ』これこそ世界が待望していた21世紀の国際社会を指導する理念だ」と思ってくれる人が世界に何人いると思っているのか。
それによって日本の政治家たちが世界のメディアから注目され、その識見について繰り返し意見を徴され、その指導力が求められるということが起こると、彼らは本気で思っているのであろうか。
防衛費を倍増しようと、核武装しようと、ミサイル攻撃に即応するシステムを構築しようと、それによって国際社会からの敬意を獲得することはできない。
獲得できるのは、「何をするかわからない危険きわまりない国に対する遠慮がちな態度」だけである。
それはまさに現在北朝鮮が享受しているところの「利権」である。
日本を北朝鮮化すること、彼らがそれを夢見る気持ちはわからないでもない。
「遠慮がちな態度」だって「侮りがちな態度」よりはましだと思う気持ちはわからないでもない。
でも、自分たちがそのような法外な夢を抱いていることをご本人たちは意識していない。
問題はそこだ。
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