鹿児島での九州の高校の公民科の先生たちの集まりで講演。
鹿児島には梁川くんがいるので、90 年から後何度も訪れた。去年も鹿児島大学で講演して、黒豚を食べて、美味しい泡盛を飲んだ。
今回は城山観光ホテルに投宿。宴会&露天風呂付きである。
講演がなければプチ・バカンス気分である。
あ、こういうことをフランス語の教師が書いてはいけないね。
「休暇」という意味の「バカンス」は通常複数形で用いられるから、あえて表記すれば petites vacances「プティット・ヴァカンス」で「プチ・バカンス」ではない。
フランス語の表記の間違いはたいへん多い。ほとんどすべての看板のフランス語は間違っていると言って過言ではないくらいだ。
家の近所に La Tour Blanc 「ラ・トゥール・ブラン」というレストランがある。
「白い塔」というつもりなのだろうが、tour は女性名詞であるから、これは La Tour Blanche「ラ・トゥール・ブランシュ」でなければならない。
フランス人がこの看板を見たら「自い塔」というような漢字を私たちが見たときのような違和感を覚えることであろう。
àcoeur という美容院がある。à coeur は英語の at heart という意味であるから言わんとするところはわからぬでもない。
でも、à と coeur がくっついて、一語になっていて、おまけにアクサンが逆向きについている。
アクサン・テギュのついた a を見ると(このフォントでは再生できぬが)、一瞬頭がくらくらする。
大学にゆく途中には prête という名前のファッションの店がある。
「貸せ」という動詞の命令形なのか、あるいは「準備できてます」という形容詞の女性形なのか定かではないが、もし諸君がパリの街を歩いていて「貸せ」という日本語の看板を見たら、「ぎくり」とされるということについてはご同意いただけるであろう。
ロゴのデザインを考えたり、看板を作ったりするのにはずいぶんお金をかけているはずである。その手間の一部をどうして「仏和辞典を引く」ということに割かないのであろうか。
私にはそれがうまく理解できない。
どうせ間違っていても、フランス人が読むわけじゃないから、関係ないと思っているのだろう。
そういえば、アメリカではいま漢字のタトゥーがはやっているらしいが、この漢字がデタラメらしい。
「天地無用」とか「菊正宗」とめちゃくちゃなタトゥーを入れているそうであるからお互いさまである。
石橋凌が英語のうまいやくざの親分をやった映画では、日本レストランの壁一面に日本語の格言がはりめぐらしてあった。
妙に達筆で書かれた「はきだめに鶴」というのがとりわけ印象的だった。
「はきだめに鶴」がインパクトありすぎて、映画のタイトルも主演俳優の名前も思い出せない。
城山の月を露天風呂から眺めながら、プチ・バカンスを楽しんだ。
6 日に中央公民館というたいへんシックな建物で、講演。
お題はいつもの「脱=市場原理の教育」。
連続3回同じタイトルで話をしている(でも、内容はちょっとずつ違う)。
記号が記号として機能するために「したごしらえ」をする前-記号的なはたらきについて話す。
「メッセージの読み方を指示するメッセージ」(メタ・メッセージという)を適切に読みとることができないと、言葉のデノタシオン(語義通りの意味)はわかるけれど、コノタシオン(文脈上の意味)を取り違える。
一つのセンテンスにはほとんど無限の解釈可能性があり、その中でもっとも適切な解釈を選択する能力は、コミュニケーションを円滑にすすめる上で必須のものである。
しかるに、現代人はこの「メタ・メッセージ」解読能力を組織的に破壊してしまった。
別に誰かが悪意をもってやっているわけではなく、自分たちで「よかれ」と思ってやったのである。
「高度情報化時代」という趨勢の当然の帰結である。
「情報」と「情報化」は違う、ということはこれまでも何度か書いた。
「情報」というのは「処理済み」のものであり、「情報化」というのは「生ものを情報単位にパッケージすること」である。
魚屋が市場から来た魚を三枚におろす作業が「情報化」である。パッケージされた切り身が「情報」である。
「高度情報化社会」というのは誤解している人が多いと思うが、「情報化」が進んだ社会のことではなく、「情報化」のプロセスが人目に触れなくなる社会のことである。
誰がどこでどんな魚を「三枚におろして」いるのか、誰も見ることができない社会のことである。
人々は情報を並べたり、入れ替えたり、交換したり、値札をつけたりする作業にのみ専念している。
それが高度情報化社会である。
切り身になる前の魚はいろいろな「使い道」がある。
ぶつ切りにしてもいいし、開いて干物にしてもいいし、塩に漬けて魚醤にしてもいいし、粕に漬け込んでもいいし、かちかちに日干しにして人の頭を殴ってもいいし、金肥にして畑に撒いても言い。
そういう無数の「解釈可能性」を「なまの魚」は蔵している。
「切り身のパッケージ」はそのありよう以外のすべてのありようを捨象した「残り」である。
「情報化」とは、「前-情報的素材」を「情報」に精製する過程で、無限の解釈可能性の中から適切なものを一つだけ選び、あとを捨てるということである。
だから、資源が有限の環境においては、与えられた「前-情報的素材」の蔵する無限の「使い道」のうち、「さしあたり私が生き延びる上でもっとも有用な使い道」をただちに見当てる能力が死活的に重要なものとなる。
だが、この能力は「高度情報化社会」では不要である(だって、すべての情報はもう誰かによって「加工済み」なんだから)。
不要であるという以上に、もうこのような能力が存在するということ自体を私たちは忘れた。
「前-情報的素材」の取り扱いについて、現代人はほとんど「無能」になってしまった。
そうして、現代人は「無限の解釈可能性に開かれたメッセージの最適解釈を発見する」能力を回復不能なまでに減退させてしまったのである。
人々はもう数値しか見ない。記号化されたものしか見ない。
医療の現場でも、教育の現場でもそうである。
何度も書いた話だが、シャーロック・ホームズのモデルはエジンバラ大学医学部時代にコナン・ドイルが師事したジョセフ・ベル博士である。
ベル博士は、診察室に患者が入ってくると、患者が口を開く前にその出身地や職業や既往症を言い当てたという。
おそらく、ベル博士は患者から発信される無数の「前-情報的」なノイズの中から有意なものを瞬時に選り分け、それを総合して診断をくだす高い能力を有していたのだと思う。
けれども、そういう能力は多少の濃淡はあるが、私たち全員に潜在的に備わっており、それを開発する体系的なメソッドもかつては存在したのである。
識閾下で無数の「ノイズ」を処理して、それを「シグナル」に変換する能力を高めるための訓練法である。
いろいろなかたちのエクササイズがあったが、もう、現代人は誰もやらない。
「ノイズ-シグナル変換」を高速処理できる人間は気配りが行き届き、共感能力が高く、ひとの気持ちや「してほしいこと」がよくわかる。
逆に、変換能力が低い人は鈍感で、場違いで、他人の気持ちがわからず、人を誤解し、また誤解され、実際によく人の足を踏んだりする。
私たちはこの能力の開発にほとんどリソースを割かなくなった。
それは「資源が豊か」なので、限られた資源がもつ潜在可能性を網羅的に吟味する必要がなくなったからである。
コミュニケーション不調がこれだけ起こるのは、ひとつには私たちの社会が「あまりにも豊かで安全」になったからである。
現代はコミュニケーション能力が病的に低くても生きていける社会、つまり「ひとりでも生きていける社会」である。
そこではコミュニケーション能力を開発するインセンティヴは損なわれる。
当然のことだ。
それが私たちの社会を耐え難く住みにくいものにしている。
というような話をする。
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(2009-08-07 10:56)