8月3日から「死のロード」が始まる。
3日、芦屋市教育委員会。4日、東大阪市人権教育研究会、5日-6日、鹿児島で九州高校公民科大会、7-9日が箱根でアゲイン株主大会、帰りに東京に寄って母とるんちゃんに会って、10 日に神戸に戻り、その夜、医学書院のための対談。それで一応ロードは終わるが、翌日歯の手術で、しばらく予後を養わないといけない。
どうしてこんなにハードなスケジュールを組んでしまったのか、自分でもよくわからない。
仕事を頼まれるときには「X日は空いてますか?」という訊き方をされる。「ふさがってます」と嘘は言えない。言ってもいいけれど、「ではY日はいかがですか? Z日は?」と畳みかけられるだけであるので、結局、どこかで諦めるしかない。
講演はいずれも教育現場からのご依頼であり、「ぜひ、現場の先生がたへエールを送ってください」と言われると、実情を知るだけに、断ることができない。
今回の死のロードもそんなわけでこんなことになってしまった。
そのあいまに『新潮45』と『AERA』と「呪いと祝福」の原稿の締め切りが入っていた。
新潮社のアダチさんは新書の締め切りはマジで8月末までですからねと念押しをしてくる。これはもう1年半くらい引き延ばしているので、いくらなんでもこのへんで書き終わらないといけないので、11 日からあとはひたすら原稿書きである。
こんなハードな生活はいつまでも続けられまい。
ということで、とりあえず来年からの講演は全部断ることにした(何度目の宣言であろうか・・・)
でも、今度は本気である。
来年は大学最後の年だからである。
最後の1年くらいは副業を自制して、本務であるところの大学の教育に専念したい。
いくつかのプログラムについては、私がいなくなった後も問題なく継続できるように手当てをしておかなければならない。
という大義名分があるので、講演も連載もすべて「ちゃら」である。
とはいえ、3日、4日もどちらも講演の聴衆は熱心かつフレンドリーであった。3日は教委主催で、芦屋市内の校長先生園長先生たち40人ほど。4日は東大阪市の公立の小中学校の先生たち約200人。
いずれも、「学ぶ力」とは何か、という話をする。
私たちの社会は、人間のもっている潜在的な能力を「勘定に入れて」制度設計されている。
潜在的な能力というのは「まだ知らないことを先駆的な仕方で知っている」能力である。
フッサールは「未来把持」という術語を使ったけれど、要するに「まだ存在しないもの」を先駆的に感知できる力である。
時間をフライングする力である。
学びというのは、この基礎能力を前提にして構築されている。
この知識や技術や情報が自分のこれからの人生のどこかで死活的に重要なものになる、あるいはこの知識や技術を欠くことが自分の生存に深刻な危険をもたらすだろうという先駆的な確信が学びを起動させる。
この先駆的確信には実定的な根拠がない。
学び始める人間は、どうして自分はこれを学ばなければならないのかを言うことができない。
しかし、経験的にたしかなことは、自分はどうしてこれを学ばなければいけないのかを言うことができないし、誰もその利益を指示しないし、ぜひ学び給えと勧めることもしないような技芸について、その欠落を耐え難く感じることがあったとしたら、それは学びが起動しているということである。
その「機」をとらえることが学びの要諦である。
しかし、現代の教育システムでは、学びの有用性、努力と報酬の相関についてあらかじめ一覧的に開示されない限り、「学んではいけない」という禁止の圧力が働いている。
商取引のルールを教育に持ち込むとそういうことになる。
商品購入に先立って、消費者自身がどうしてその商品が欲しいのかを言えず、誰もそれを購入することの利益を示さず、誰もそれを「買え」と言わない商品を購入することはない。
「ない」というより「あってはならない」
「賢い消費者」は自分が何を欲しており、何を不要としているかについて熟知し、「これを買え」という無数のオッファーの中から、スペックを吟味した上で、もっとも費用対効果の高い商品を過たず選択することを義務づけられている。
商品購入において、「この商品は、いずれ私の人生に、今の私には予見できない仕方でかかわってきて、私を救うことになるだろう」というようなことを先駆的に確信する必要はないし、現にそんなことをしている消費者はどこにもいない。
商品購入のスキームで学びにかかわると、この先駆的確信が作動しない。
日本の子どもたちの「学ぶ力」はいま壊滅的に劣化しているが、それは彼らが商品を購入するときのマインドで教育の場に登場してきているからである。
というような話をする。
わかりにくいですね。
では、これから鹿児島に行ってきます。
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(2009-08-05 08:30)