夢の中で村上春樹の新作を読む。
主人公の「僕」は大学教師を辞めて、千葉の国府津にある小さな電機メーカーの企画開発部に就職することになる。
昭和30年代にある天才的な科学者が創立した会社らしく、「僕」はその会社の倉庫で会社創業時のカタログを発見して、それを読み始める。
このカタログがぶ厚くて、なにしろカタログそのものに工具セットが付録でついているのである(村上春樹の小説にもその「付録」が付いている)。
工具セット付き小説。
おまけにカタログは乱丁で、頁があちこちに飛ぶ。
読者は次の頁を探しながら、昭和30年代に、あるマッドサイエンティストの脳裏に宿った「夢の家電」の数々を眺めることになる。
それは今のそれとはちょっと違う「電子炊飯器」(なぜか二重蓋になっている)とか、そういうもの。
そこまで読んだところで目が覚めた。
へえ、『1Q84』と同じ構造じゃないか(ちょっと違うけど)。
過去のある時点に「転轍機」があって、そこから派生した「今とは違う未来」。
ちょうどそれについて『こんたね』の文庫版の「あとがき」に書いたばかりだった。
私はこんなことを書いた。
自分たちの周囲にあるものについて、どうしてこのような制度を私たちの祖先は採用したのか。どうして、このような制度が採用されて、「そうではない制度」が採用されなかったのか。「そうではない制度」としてはどのようなものが可能だったのか、といった一連の問題について考える知的な構えのことをミシェル・フーコーは「系譜学」と呼びました(もしかすると違うかも知れませんけれど、私はそういうふうに理解しています)。
私が提唱しているのは、「系譜学的に思考する」ことです。ある社会制度がうまく機能していないとき、いきなり「ぶっこわせ」と呼号したり、「最善のソリューションはこれである」と非現実的な夢想を語り出すのを少しだけ自制して、「このような制度が採用されるに至った」時点まで遡及し、そして、そのときのリアルタイムで「ほかにどのような選択肢があったのか」を(想像的に)列挙してみること、それがさしあたり私が心がけていることです。
今とだいたい同じだけれど、今とは採用されている制度が少しだけ違う世界。それについて考えることは今の世の中の成り立ちを知る上で、たいへん重要なことだ。
SFというのはこれが本業みたいなジャンルだけれど、このような想像力の使い方を学問的な方法として評価する人はほとんどいない。
しかし、「ナチスドイツが先に原爆の実用化に成功したので、枢軸国が戦勝国になった世界」とか「南北戦争で南部連盟が勝利したあとのアメリカ」とか「ポーツマス条約のあと、アメリカと南満州鉄道を共同経営することにした場合の満韓事情」とか「フランスと日本の共同統治が組織的に行われた場合の仏領インドシナ」とかについて想像することは、たいせつなことだ。
私がそれを痛感したのは、15年ほど前に、ローザンヌのオリンピック・ミュージアムの地下のアーカイブで「東京オリンピック計画書」を読んだときのことである。
「東京オリンピック」といっても1964年のではなく、1940年に予定されていた「幻の東京オリンピック」についてJOCがIOCに提出した計画書である。
「行われなかったオリンピック」の競技場や選手村の見取り図や道路整備や通信や警備体制についての計画書はクールで知的なフランス語で淡々と綴られていた。
中には「昭和10年代の帝都」のたたずまいを写した写真が何葉か収められていた。
今からは信じられないくらいに透明な東京の青空と短髪で筋肉質の「お醤油顔」の青年たちの笑顔がそこには写っていた。
この写真に写っている青年たちの何人かはその後、中国大陸や南洋の海で死んだ。
彼らが死ななくてもよかったような選択肢があったのではないか。
私はローザンヌの無人の図書室でそう考えてひどく気持ちが沈んだ。
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(2009-07-20 10:40)