英語で合気道

2009-07-18 samedi

今学期から始まった科目で Introduction to Japanese Culture というのがあって、その1回分を担当することになった。
海外からの留学生に日本文化を紹介する「日本文化早わかりコース」のようなものである。
私が担当するのは合気道のワークショップ。
フランス語で合気道を教えたことは何度かあるけれど、英語でやるのははじめて。
私は英語を話すのが苦手なので、ずっと気が重かったのであるが、終わってほっとした。
むかし合気道部にいた国際交流センターの北川くん(おいちゃんとは別人)がめんどくさいところは通訳してくれたので、助かりました(ありがとね)。
英語教育については少し前にブログに書いたことをめぐって鹿児島の梁川君と意見の交換をした。
話してみると、けっこうむずかしい問題なのである。
なかなか「これ」という結論には落ち着かない。
その話を少し続けたい。
すでに理系の世界では英語がリンガフランカになっており、英語で論文を読んで、書いて、学会発表をして・・・ということが日常化している。
それゆえ、理系の先生たちの中では「大学の授業もぜんぶ英語でやればいいのではないか」というようなことを言い出す人もいる。
文系でも賛同する人もいる。
文科省も後押ししているし、財界もうるさく言い立てているので、全教科を英語でやるという国際なんたら学部がすでにあちこちに出来ている。
私はこの傾向に対していささかの憂慮を抱いている。
「何か、よくない」という感じがするのである。
「何か、よくない」という印象をもつのはたいていの場合かなり複雑な事態についてである。
理由のはっきりしている「よくないこと」については、端的に「よくない」と言う。
理由が自分にもよくわからないことについてのみ「何か」という限定がつく。
たぶん、創造性ということについて微妙な違和感を覚えるからである。
私の場合、「創造的」というのは、ほとんど「口から出任せ」というのに等しいんだけど。
その場合に、ある言葉がふと口を衝いて出て、それがどういうふうに転がって、どういうふうに収まるのか、予見できぬままに言葉が繋がり、やがて「そんな話になるとは思わなかった」ことを言い始める。
しゃべった本人が「へえ、私はそんなことを言いたかったのか」と事後的に知る、というかたちで「新しいアイディア」は生まれる。
私の場合は、とにかく、そうである。
問題は、このようなデタラメな言語運用は母語についてしかできない、ということである。
それと「同じこと」を私は外国語では行うことができない。
私が日本語でやっているようなことを、外国語でしようとしたら、絶え間なく文法的な「破格」を犯し、存在しない「新語」を作り出し、因習的には決してそのような結びつきをしない形容詞と名詞を結びつけ、意味の幅を拡げることなしには受け止められない動詞に重荷を負わせることになるのだが、それはネイティヴからはただちに「誤用」として退けられる可能性がある。
母語の場合は、どれほどデタラメなことを言っても、それは権利上つねに「正しい日本語」である。
私は漢字を二字組み合わせて、適当な熟語を作ることがある。
新聞社や出版社の校閲は「こんな言葉は広辞苑にありません」と朱を入れてくる。
なくて当然である。私が作ったんだから。
でも、これはオーセンティックな日本語である。
日本語を母語とする話者が作った語は、他人が読んでも意味が理解できて、使い回しが効く限り、これを「誤用」として退ける権利は誰にもない。
現にそうやってすべての国語は日々新たな語彙を獲得し、あらたな文型を増殖しているのである。
(少し前に「真逆」という言葉を見て、「まっさかさま」と読みかけたことがあるが、どうもこれは「まぎゃく」と読むらしく、すでに日常日本語に登録されている)
母語についてはそれが許される。
けれども外国語の場合は困難である(不可能ではないが)。
フランス語を母語とする話者は私のデタラメフランス語を聴くと、「なるほど、そういう言い方もあるか」とは思わず、「ちちち」と指を振って「フランス語じゃ、そうは言わないの」と訂正を試みる。
いや、こちらはフランス語の語彙を拡げてあげようと思ってね、というような言い訳は通らないのである(当然だけど)。
けれども、規範文法通りに言語運用することを外的に規制されている場合と、「オレがルールブックだ。オレが話す日本語が正しい日本語なのだ」と言い張れる場合では、発話における自由度が天と地ほど違う。
そして、発話におけるデタラメへの許容は、知性の創発性にとっては、死活的に重要なファクターなのである。
福岡伸一先生の本にこんな逸話があった。
分子生物学のある国際会議がアメリカであった。
学会の会長であるドイツ人が壇上に立って、開会の挨拶をするときにこう言ったそうである。
「この学会の公用語は英語ではありません」
福岡先生が「はて、何語であろう」と訝しく思ったら、会長はこう続けた。
「この学会の公用語はPoor Englishです」
たいした見識だと思う。
創発性が優先される場においては、とにかく発話の自由度が確保されねばならない。
そのためには「とにかく、わずかなアイディアでも、どんどん口にする」という一般的態度が勧奨されねばならない。
発音が悪かろうと、文法規則を踏み外していようと、そんなことはどうでもよろしい。
とにかく今つかんだ「アイディアのしっぽ」を逃さないようにするためには、ひたすら言葉を紡ぐしかない。
そのようなことを必死で外国語で行っている人間に向かって文法上の誤りを指摘したり、発音を訂正したりすることには何の意味もない。
それが「Poor English」という言葉に託されたコミュニケーション上の構えである。
「Poor English を公用語にして」という条件つきなら、私は英語で授業をすることに賛成してもいい。
それはつまり、ネイティヴスピーカーであれ教師であれ、生徒学生に対して「英語ではそういう言い方はしない」とか「そういう発音はしない」という訂正権を決して与えないという条件において、ということである。
子どもはしゃべる、先生もしゃべる。子どもが書き、先生も書く。
先生は相手の「語法」を訂正しない。
教える側は「正しい統辞法、正しい発音」をできるだけキープするというにとどめる。
しかし、今の日本の外国語教育はそれが学校であれ、町中の英会話教室であれ、「訂正」が教育だと勘違いしている人が過半である。
そもそも、英語の試験をやるということ自体「正誤の訂正」であるから、ほんとうに「Poor English を公用語に」ということを掲げるなら、中等高等教育では「英語の試験を課さない」というところまで踏み込む必要があるだろう。
いや、ほんとに。
英語を必修にする代わりに、英語については試験を課さず、成績もつけないということであれば、「英語嫌い」の中学生の相当数は「英語好き」になるだろう。
「正しい言い方、正しい書き方をする」ことを求めないということ、「正しい言い方、正しい書き方」ができなくても「ノープロブレム」という態度が社会全体に広く受け容れられるということが「英語をリンガフランカとして使いこなす」ためにはクリアしなければならない条件であると私は思う。
もちろんそれは「正しい言い方、書き方」が重要ではないという意味ではない。
それはまた「別の仕事」だと言っているのである。
「正しい語法」を習得する動機はそれをツールとして使うということとはまったく違う。
「正しい語法」についての知識は、その言語によって蓄積された巨大な知のアーカイブの入り口の鍵である。
ボルヘス的な「知の図書館」へのアクセス権である。
「アクセス」への欲望と「ツール」の利便性は次元の違うものである。
「知の図書館」に欲望を抱くのは、その言語が蓄積してきた知的リソースへの敬意をもつ人間だけである。
Poor English 話者にはイギリスやアメリカの文化についての敬意は必要がない。イギリスの首都がどこであるか、アメリカの大統領が誰であるかを知っている必要さえない。
現在の日本の英語教育が深い混乱のうちにあるのは、一方で「アメリカの覇権」という威信とアメリカ発の情報と知識の価値に拝跪しながら、その一方で「ツールとして英語を使う」ということを試みているからである。
その二つは原理的に並立しない。
「ツールとして使う」という場合には、そもそも「正しい英語を使うこと」に興味がないのでなければならない。
ある科学者はフランス語で男性名詞と女性名詞を使い分けるのが面倒なので、冠詞は(男性も女性も、単数も複数も)全部「la」で押し通したという逸話がある。
これが「ツールとして使う」という場合の基本的な構えである。
ある言語を公用語とする国家に対して、その言語が蓄積してきた知的資産に対して、畏怖や敬愛や憧憬を感じ、またその言語を「美しく正しく使用したい」という欲望を抱き、かつその言語を「ツールとして使いこなす」ということはむずかしい(「できない」とまでは言わないが、きわめてむずかしい)。
そろそろそういう原理的な議論を始めてもよいのではないかと思う。
ともあれ、私は Poor English で合気道の基本的な考え方について留学生たちや日本人学生たちにご説明をしたのである。
でも「気を中丹田に集める」とか「腹を練る」とか英語で言うのはたいへん。
「気配を察して」というのをどういうのだろうと考えていて、scent of danger という言葉を思い出した(「危険を察知する直感的な力」のことをそういう。“Scent of a woman”という映画も昔ありましたね)。ほかにもいろいろ「あ、こういえばいいのか」ということをあとぢえ的に思いついたが、こういうクラスが毎週一回もあれば、私のプアな英語力も多少は向上するかもしれない。
--------