私の仕事

2009-06-18 jeudi

17日の午前10時にプレスリリースを行った。
2009年度入試の英語問題に出題ミスおよび採点ミスがあったのである。
6月3日に学外の入試問題出版社から疑問が提示され、それを承けて、出題委員への問い合わせ、ミスの確認、再採点、成績一覧の書き換え、合否判定、追加合格者の決定、文科省への報告、追加合格の通知、プレスリリース・・・とこの2週間ほど入試部長として連日その作業に忙殺されていたのである。
ブログ更新がままならなかったのも当然(そのあいまに別のイベントも進行していたし)。
とりあえず、昨日までに追加合格の通知とプレスリリースが終わった。
さいわい、追加合格によってこの時点での進路変更という志願者は少数にとどまりそうである。
それでも、実際には合格していた試験に「不合格」という通知を受け取った受験生の精神的なショックについては遡ってこれを償うことができない。
深く謝罪するとともに、受験生の逸失利益についてはできるかぎり回復に努めるつもりである。
入試業務の統括責任者として、ここに深くお詫び申し上げたい。
だが、どうしてこういうミスが起きるのだろう。
今回、入試業務の責任者として、ミスの発生原因について調査を行った。
その報告は「ミスはどうして生まれるか」ということについて、貴重な教訓をもたらした。
レポートの結論は、一言で言えば、「どうしてこんなミスが起きたかわからない」というものだったからである。
お怒りになる人がいるかも知れないが、私はこの報告はある意味で「正直」なものだと思う。
以下は一般論である。
ミスは「これが原因」と名指しできるような、わかりやすい単一の原因では起こらない。
「誰が有責者かを特定できない」からミスが起きるのである。
それは「私の仕事」と「あなたの仕事」のどちらにも属さない領域で起こる。
「オフィスの床に落ちているゴミ」を拾うのは「私の仕事」ではない。
私のジョブ・デスクリプションには「床のゴミを拾うこと」という条項はないからである。
だから、「私は『そんなこと』のために給料をもらっているわけではない」という言葉がつい口を衝いて出る。
そのような人たちばかりのオフィスはすぐに「ゴミだらけ」になる。
同じように、ミスは「誰もそれを自分の仕事だと思っていない仕事」において選択的に発生する。
「ジョブ」について書かれた印象深いテクストがある。
カインがアベルを殺した後、主はカインに訊ねた。
「あなたの弟アベルはどこにいるのか。」
カインは答えた。
「知りません。私は自分の弟の番人なのでしょうか。」(『創世記』4:9)
「私は自分の弟の番人なのでしょうか」とカインは言った。
「『私の仕事』がどこからどこまでなのか、それをはっきりさせて欲しい」というカインの要求を主は罰された。
「私の仕事」はその境界線を「ここまで」と限定してはならない。
それは信仰上の戒律であるというよりは、集団で仕事をするときの基本的な心構えのように私には思われる。
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