お掃除するシシュフォス

2009-06-07 dimanche

久しぶりの、ほんとうに久しぶりのオフである。
カレンダーを見ると、真っ白である。
どこに出かける用事もない。締め切りもない。
ふう。
カレンダーが「真っ白」というのは4月5日以来。
二ヶ月ぶりである。
ユダヤ教だって、キリスト教だって、イスラム教だって、安息日は一週間に一日で、その日はお祈りする以外は、できるだけ家にじっとしていて仕事はしちゃいけないはずである。
人間が人間的に生きるためには、それくらいの休息は必要だということである。
ほんとに。
久しぶりの休みで、うれしくて、朝から原稿を書いている(意味ねーじゃん)。
一昨日三砂先生とひさしぶりにお会いして、いろんな話をしたのだが、そのことを日記に書いていなかったので、「入試部長のひとりごと」の方に書く。
三砂先生はちょうど『1Q84』を読み終えたところだったので、二人で「すごいよね」と盛り上がる。
三砂先生は「ムラカミハルキ先生」とずっと敬称をつけて呼んでいた。
こういう人が同時代にいて、その人の一番新しい小説を、出たその日に買って読むことができるというのは、ほんとうに幸せなことだからだ。
その感謝の気持ちを「敬称」で表しているそうである。
三砂先生は小説も書いている。
小説を書くことのむずかしさと愉楽については臨場感をもって知っている。
講演とか研究プロジェクトとか、そういうのとはそろそろ足を洗って、女子学生のケアと小説執筆だけに専念したいそうである。
そういうことなので、今の三砂先生は「小説書きませんか?」というオッファーには日向のアイスクリームみたいに弱いかもしれない(以上、業界宛て業務連絡でした)。

ついでに、週刊文春用に『1Q84』の書評を書く。
字数が1000字ちょっとなので、書きたいことのほんの一部しか書けない。
こういうときはブログという表現手段があることはほんとうにありがたい。
字数制限もないし、放送禁止用語もない。
書いたあとに、書き足したいことが出てきたら、翌日書き足せばいい。事実誤認があれば、「嘘書いてごめんね」と即日訂正できる。

原稿を山ちゃんに送稿してから、ひさしぶりに家の中を大掃除する。
冬用のラグを片付けて、散乱していた本をまとめて書架に戻し、洋服箪笥の中を整理して、探していたパジャマとスラックスを鞄の下から発見。古い謡本を片付け、段ボールの空き箱を解体して、しばってまとめる。トイレを掃除して、床に掃除機をかけて、洗濯物にアイロンをかけてしまう。
2時間ほど掃除をしていたら、汗びっしょりになる。
やれやれ、だいぶ片付いた。
2時間で済むような掃除なら、いつでもできるじゃないかと言う人がいるかも知れない。
毎日3時間も4時間も酒飲んで、バカ映画みてごろごろしているんだから、その時間にやればいいじゃないか、と。
そういうものではないのだよ。
それは家事というものを本気でしたことのない人の言葉である。
家事というのは、明窓浄机に端座し、懸腕直筆、穂先を純白の紙に落とすときのような「明鏡止水」「安定打座」の心持ちにないとなかなかできないものなのである。
お昼から出かける用事がある、というような「ケツカッチン」状態では、仮に時間的余裕がそれまでに2、3時間あっても、「家事の心」に入り込むことができないのである。
というのは家事というのは「無限」だからである。
絶えず増大してゆくエントロピーに向かって、非力な抵抗を試み、わずかばかりの空隙に一時的な「秩序」を生成する(それも、一定時間が経過すれば必ず崩れる)のが家事である。
どれほど掃除しても床にはすぐに埃がたまり、ガラスは曇り、お茶碗には茶渋が付き、排水溝には髪の毛がこびりつき、新聞紙は積み重なり、汚れ物は増え続ける。
家事労働というのは「シシュフォスの神話」みたいなものなのである。
シシュフォスの苦役についてアルベール・カミュはこう書いている。

「神々はシシュフォスに岩を山頂まで押し上げる終わりなき刑を宣した。岩は山頂に達するたびに、自らの重みでまた落下するのである。神々はどういう理由によってかは分からないが、無用でかつ希望のない労役ほどに恐るべき罰はないと考えたのである。」(Albert Camus, Le Mythe de Sisyphe, in Essais, Gallimard,1965, p.195)

彼が罰された理由はさまざまだけれど、伝承によれば、それは彼が神々を軽んじ、死を憎み、生を愛したためである。
彼が受けた刑は「彼がこの世界をあまりに愛したことの代償」なのである。
身体がきしむような労役によって岩を山頂に押し上げると、岩は再びもとの場所に転がり落ちる。シシュフォスは今やり終えた仕事を最初からやり直すためにゆっくり山を下りる。

「坂を下っている、このわずかな休息のときのシシュフォスが私を惹きつける。(…) 重く、しかし確かな足取りで、終わりを知らない苦役に向かって山を下る男の姿が見える。息継ぎのように、そして彼の不幸と同じように確実に回帰してくるこの時間は覚醒の時間でもある。山頂を離れ、ゆっくりと神々の巣穴に向けて下ってゆくこの一瞬一瞬において、彼は彼の運命に優越している。彼は彼の岩よりも強い。
この神話が悲劇的であるのは、その主人公が覚醒しているからである。(…) 神々のプロレタリアであるシシュフォス、無力で反抗的なシシュフォスは彼の惨めな状況をすみからすみまで熟知している。彼が山を下りながら考えているのは彼自身の状況についてである。彼の苦しみを増すはずのその明察が同時に彼の勝利を成就する。どのような運命もそれを俯瞰するまなざしには打ち勝つことはできないからだ。」(Ibid., p.196)

あまりにかっこいいのでカミュを引用すると、ついたくさん訳してしまうが、ここで期せずしてカミュが「明察」(clairvoyance) という言葉を使っていることにご注意願いたい。
私は上で「明窓浄机に端座して」「明鏡止水」の心境で、と書いた。
家事を行うときの心構えとして、「明察」を挙げる人は(幸田露伴を別とすると)あまりいないけれど、これはまことにたいせつな心構えである。
家事を侮るものは、必ず家事の全貌を「俯瞰する」努力を怠る。
「このエンドレスの仕事は私の仕事である」という涼しい断念を回避しようとする。
「こんなのは私の仕事じゃない」とか「誰かがやればいい(金は出すからさ)」とか、見苦しい言い逃れをしようとする。
「岩から逃げ出すシシフォス」は運命に屈服しているのである。
私が「休みが欲しいよ」と泣訴しているのは、朝寝をしたいとか、ごろごろマンガを読んでいたいとか、そういう理由ばかりによるのではない。
私が休みが欲しい主たる理由は「家事をしたい」からである。
私自身の「シシュフォスの運命」にまっすぐ向きあいたいからである。
私の敬愛する兄上は先般会社をリタイアされて、晴れて “ゴールデンパラシューター” として悠々自適の日々を送っておられるが、兄の次の夢は伊豆の山中に別荘を建てることだそうである。
海を望むガラス張り広い部屋にピアノとオーディセットと書棚と寝心地のよいソファを置いて暮らすそうである。
「毎日何するの?」と私が訊いたら、兄は当たり前のことを訊くねえお前は、というように訝しげな表情をしてこう答えた。
「掃除だよ」
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