「父」からの離脱の方位

2009-06-06 samedi

『1Q84』は記録的な売れ行きらしい。
今の段階で、発売一週間で96万部。
ミリオンを超えることは確実で、『ノルウェイの森』の450万部という記録を塗り替えるかもしれない。
おそらくメディアはこれから、この本の文学作品としての意味より、なぜこれがこれほどの社会的な「事件」を引き起こしたのかの方に多くの紙数を割くようになるだろう。
メディアが『1Q84』を「事件」として扱い、膨大な非文学的言説が行き交うようになる前の短い空白の間に、この作品についてまだ誰の感想も聞いていないイノセントな状態で、自分ひとりの感想を書き付けておきたい。

ムラカミ・ワールドは「コスモロジカルに邪悪なもの」の侵入を「センチネル」(歩哨)の役を任じる主人公たちがチームを組んで食い止めるという神話的な話型を持っている。
『羊をめぐる冒険』、『ダンス・ダンス・ダンス』、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』、『アフターダーク』、『かえるくん、東京を救う』・・・どれも、その基本構造は変わらない。
「邪悪なもの」は物語ごとにさまざまな意匠(「やみくろ」や「ワタナベノボル」や「みみず」などなど)をまとって繰り返し登場する。
この神話構造については、エルサレム賞のスピーチで村上春樹自身が語った「壁と卵」の比喩を思い浮かべれば、理解に難くないはずである。
このスピーチでは、「邪悪なもの」とは「システム」と呼ばれた。
「システム」はもともとは「人間が作り出したもの」である。
それがいつのまにかそれ自体の生命を持って、人間たちを貪り喰い始める。
システムの前に立つと、ひとりひとりの人間たちは「壁にぶつけられる卵」のように脆弱である。
けれども、「卵の側に立つ」以外に、人間が「システマティック」な世界をわずかなりとも「人間的なもの」に保つためにできることほとんどない。
本作では、「邪悪なもの」は「リトル・ピープル」と名づけられる。
それとの戦いが現実の1984年とは違う「1Q84年」という神話的な闘技場で展開する。
戦うのは「青豆」という名の女性主人公と「天吾」という名の男性主人公。
彼らはそれぞれ「武器」と「物語」を手にして、「タマル」と「ふかえり」というパートナーとともに、絶望的な戦いに挑む。
基本構造は変わらない。
しかし、今回の長編にはかつてない大きな変化が見られた。
それは「父」が前面に登場してきたことである。
村上作品に「父」が登場することは少ない(「絶無」と言ってもいいくらいである)。
分析的な意味での「父」とは単なる生物学的な父のことではない(生物学的な母が「父」である場合も多い)。
「父」とは「世界の意味の担保者」のことである。
世界の秩序を制定し、すべての意味を確定する最終的な審級、「聖なる天蓋」のことである。
どの社会集団もそれぞれに固有の「ローカルな父」を持っている。「神」や「天」という名を持つこともあるし、「絶対精神」や「歴史を貫く鉄の法則性」と呼ばれることもあるし、「王」や「預言者」という人格的なかたちをとることもある。
その世界で起きていることは(善きにつけ悪しきにつけ)を何かが専一的に「マニピュレイト」しているという信憑を持つ社会集団はその事実によって「父権制社会」である。
どれほど善意であっても、弱者や被迫害者に同情的であっても、「この世の悪は “マニピュレイター” が操作している」という前提を採用するすべての社会理論は「父権制イデオロギー」である。
「父権制イデオロギーが諸悪の根源である」という命題を語る人は、そう語ることで父権制イデオロギーを宣布しているのである。
なぜ、私たちは「父」を要請するのか。
それは、私たちが「世界には秩序の制定者などいない」という “真実” には容易には耐えることができないからである。
実際には、私たちは意味もなく不幸になり、目的もなく虐待され、何の教化的意図もなく罰せられ、冗談のように殺される。
天変地異は善人だけを救い、悪人の上にだけ雷撃や火山岩を落とすわけではない。
もっとも惜しむべき人が夭逝し、生きていることそのものが災厄であるような人間に例外的な健康が与えられる。
そんな事例なら私たちは飽きるほど見てきた。
では、世界はまったく無秩序で、すべてのことはランダムに起きているのかといったら、そうではない。
そこには部分的な「秩序のようなもの」がある。
世界を包摂するような秩序を作り出すことは誰にもできない。
けれども、手の届く範囲に限れば「秩序のようなもの」を打ち立てることはできる。
科学的に思考し、フェアに判断し、身体感受性が高く、想像力の行使を惜しまない人々が「ダマ」になって暮らしている集団があれば、そのささやかな集団では「秩序のようなもの」が「無秩序」を相対的には制するだろう。
けれども、それはあくまで、一時的、相対的な勝利にすぎない。
その「秩序のようなもの」を一定以上の範囲に拡げることはできない。
そのような「ローカルな秩序」はローカルである限りという条件を受け容れてのみ秩序として機能し、普遍性を要求した瞬間に無秩序のうちに崩落する。
繰り返し書いているように、正義を一気に全社会的に実現しようとする運動は必ず粛清か強制収容所かその両方を採用するようになる。
歴史はこの教訓に今のところ一つも例外がないことを教えている。
私たちは「父」を要請してはならない。
たとえ世界のかなり広い地域において、現に、正義がなされておらず、合理的思考が許されず、慈愛の行動が見られないとしても、私たちは「父」の出動を要請してはならない。
「ローカルな秩序」を拡大しようとするときも、ひとりひとりの「手の触れる範囲」を算術的に加算する以上のことをしてはならない。
私は「父権制イデオロギー」に対する対抗軸として、「ローカルな共生組織」以上のものを望むべきではないと考えている。
思弁的にそう思うのではなく、経験がそう教えているのである。
村上文学における「父」の話をしているところだった。
話を戻そう。
文学もまた「父」を(ほとんどそれだけを)ひさしく主題にしてきた。
あるときは「父の武勲詩」を、あるときは「父に抗う子どものパセティックな抵抗(と劫罰)の物語」を、あるときは「父の不在」を嘆く悲嘆の詩を。
その中にあって、現代の何人かの作家たちは「父抜きの世界」を描くという野心を抱いた。
その中の一人であるアルベール・カミュは自作について次のように書いている。

「私は哲学者ではありません。私は理性もシステムも十分には信じてはいません。私はどうふるまうべきかを知ることに関心があります。もっと厳密に言えば、神も理性も信じないでなお、人はどのようにふるまい得るかを知りたいと思っているのです。」(Albert Camus, Interview à ‘Servir’, Essais, Gallimard, 1965, p.1427)

このカミュの言葉にエルサレムの村上春樹は全幅の賛意を示しただろう。
「システム抜き」でも人間はやり遂げることができるか。
ふるまい方を指示するマニュアルも教典も存在しない世界でも、人は「人として」ふるまうことができるか。
もしそれができるのだとしたら、何が人の行動の規矩となるのか。
ほとんどの人はこれからのどうするかを決めるとき、あるいはすでに何かをしてしまった後にその理由を説明するために、「父」を呼び出す。
それは必ずしも「父」の指導や保護や弁疏を期待してではない。
むしろ多くの場合、「父」の抑圧的で教化的な「暴力」によって「私は今あるような人間になった」という説明をもたらすものとして「父」は呼び出されるのである。
「父」の教化によって、あるいは教化の放棄によって、私は今あるような人間になった。
そういう話型で私たちのほとんどは自分の今を説明する。
それは弱い人間にとってある種の救いである。
世界は「父」を呼び出すことで一気に合理的になり、さまざまなものが名づけられ、混乱は整序される。
けれども、そのようにして繰り返し自己都合で「父」を呼び出しているうちに、「父=システム」はますます巨大化し、遍在化し、全知全能のものになり、人間たちを細部に至るまで支配し始める。
「私が今あるような人間になったことについて、私は誰にもその責任を求めない。」
そう断言できる人間が出てくるまで、「父の支配」は終わらない。
「父の支配」からの「逃れの街」であるような「ローカルな秩序」は、そう断言できる人間たちによってしか立ち上げることができない。
カミュやレヴィナスはそう教えている。
私は彼らの考想に同意の一票を投じる。
そして、村上春樹もまた彼らと問題意識を共有しているということについては確信がある。
『1Q84』にはたくさんの「小さな父たち」が登場する。
青豆の父も、天吾の父も、「ふかえり」の父も、タマルの父も、みな自分たちの子どもをさまざまな仕方で棄てる。
それが子どもたちに深い傷を残す。
「リトル・ピープル」という「邪悪なもの」はおそらくそれらの「小さな父たち」の「しけた悪意」の集合表象のようなものだ。
主人公たちはその「邪悪な父によってつけられた傷」によって久しく自分の現在を説明してきた(あるいは「説明する能力」の欠如を説明してきた)。
それが彼らをどこにも進めなくしてきた。
「トラウマ」とはそういうものだ。
何が起きても、誰に出会っても、「あのできごと」に帰趨的に参照されて、その意味が決まる。
「トラウマ」とまったくかかわりのない、「新しいこと」は決して起こらない。そのように過去に釘付けにされることが「トラウマ」的経験である。
何を経験しても、それを「父」とのかかわりに基づいて説明してしまう(「父が私にそれを命じたから」あるいは「父が私にそれを禁じたから」)。
そのような言葉づかいをしている限り、「父」の影響を一方的に受ける「被制者」という立ち位置から私の人生は始まったという話型で自分について語る限り、「子ども」たちは「父」から逃れることができない。
『1Q84』は、困難な歴程の果てに、主人公たちが「邪悪で強大な父」という表象そのものを無効化し、「父」を介在させて自分の「不全」を説明するという身になじんだ習慣から抜け出して終わる。
それはもちろんはなやかな勝利ではないし、心温まるハッピーエンドでもない。
けれども、私は村上春樹がこの作品で「父の呪縛」から逃れる方途について何かはっきりした手応えを覚えたのではないかと思う。
それはこの作品の骨組みのゆるぎない物語構造と、細部の(ほとんど愉悦的なまでの)書き込みから感じられるのである。
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