福島みずほさんと会う

2009-05-26 mardi

福島みずほさんと対談したはずなのだが、ブログに何も書いていないのは「何か」あったのでしょうか、というお訊ねメールが届いた。
このメールの背後には「事変」を望む無意識的欲望が何となく感じられるのであるが、福島さんとの対談はたいへん愉快なものでありました。
昨日のブログは小田嶋さんの話だけで長くなりすぎたので、「続きは明日」だったのである。
それにしても、赤プリで小田嶋さんと会ったあとに、永田町で福島さんと会うというのは、かなりストレンジな取り合わせではある。
ともあれ、私のふだん出入りするところではない参院議員会館に行って、「月刊社会民主」というコアな(と申し上げてよろしいであろう)刊行物のために社民党党首と対談をすることになった。
ご存じの通り、私は「異業種の人」と話をするのが大好きである。
その話のコンテンツよりは、その「語り口」から学ぶところが多いからである。
ウィキペディアの福島さんのところを見ると、ずいぶんきついことが書いてある。
ウィキペディアは中立的な記述をめざしているはずで、(かっこ付きではあれ)「中立的」な記述がこれだとすると、福島さんという人はメディ的にはかなり「タフなポジション」にいることを意味している。
政治家はタフじゃないとつとまらないよな、と思う。
福島さんが攻撃されるのは、「イデオロギッシュな人」というふうに見られているからだろう。
「綱領的に語る」というのは日本の左翼の言語運用のいわば「宿病」であり、保守の政治家たちの「コロキアルに語る」政治的言語が相手では勝負にならない。
勝負にならない所以は昨日も書いたとおりである。
保守政治家というのはほとんど「メタ・メッセージだけ」しか発信しない政党であり、左翼政治家は「メッセージだけ」しか問題にしない。
たいせつなのは為政者の発信する「メタ・メッセージ」の底意(しばしばそれは発信者自身にとってさえ意識されていない)を見きわめることなのであるが、左翼は伝統的にこの作業には知的リソースを割かない。
彼らがこのような行動を取り、このような発言をするのは「それを通じて何をしたいからか?」という問いかけの踏み込みが浅いのである。
左翼の思考の限界は、「敵対する政治家は自分が何をしているかわかっている」ということを前提にすることである。
それが自己利益の追求であれ、誤った政治イデオロギーであれ、単なる悪意であれ、敵対する政治家は「ある原理に基づいて思考し、行動している」と左翼は考える。
それが間違いのもとである。
政治家たち、とくに為政者は自分がどうして「こんなこと」を考えたり、言ったり、したりしているのか「言えない」のである。
けれどもまさに自分が現になしていることが「何であるか」を綱領的な言語で「言えない」という事実が自民党の長期政権を支えてきたのである。
なぜなら、その「言えないこと」こそが大衆の無意識的欲望に「触れている」からである。
でも、近年の自民党の領袖たち(安倍晋三や麻生太郎)はこの伝統を忘れ、自分たちの思考や行動を綱領的に表現するという「ありえない」オプションに惹きつけられている。
「言葉を持った自民党」はもう自民党ではない。
そんなものをうっかり綱領的に表現したら、驚くほどに貧しく卑屈な政治思想が露呈するだけである。
おそらくはその逆の構図として、旧左翼の側に(まだ予兆的ではあるけれど)「大衆の言語化できない欲望」への関心が芽生えている。
自民党が「綱領的に・政治学的な語法で政治過程を語る」という野望を持ち始め、旧左翼が「大衆の無意識に触れなければ、どれほど表層的に整合的な言説でも、何の力も持たない」ということを感知し始めているとしたら、それが日本における「政界再編」のひとつの機軸になるだろう。
福島さんとの話も改憲運動への批判、反米ナショナリズムの話、オバマ大統領のスピーチのような言葉をどうして日本の政治家は話せないのかというところから、最後は「政治における言葉の問題」という、このところずっと気にかかっているトピック(「新潮45」でも、「Sight」でも結局その話になった)になった。
福島さんはフレンドリーで、注意深い聞き手であったので、こちらもつい調子が出て、自分でもまだよく頭の中でまとまらない話をずるずると話してしまう。
社民党はこの政界再編の流れの中でポジションをみつけることができずに苦悩しているようだけれど、「生物学的多様性」の観点から言っても、ぜひ生き延びて欲しいものである。
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