あらかじめ言葉を奪われた子供たちの鎖国論

2009-05-30 samedi

鏡を見ると、目の下にくろぐろと隈ができている。
ずいぶん休んでいない。
フルの休日があったのは、4月は1日だけ、5月は憲法記念日と、休校の週の月の2日だけだった。
あとはずっと用事に追い回されている。
今週は月曜が大阪能楽会館で朝から申し合わせ。それから部長会、授業、杖の稽古。火曜日が授業二つ(この日がいちばん楽だった)。水曜が朝からホテルオークラで打ち合わせ、昼から大学で会議、家に戻って原稿書き。木曜は朝三宅先生のところで治療、それから下川先生のところでお稽古。立廻りの足の運びのリズムが悪いときびしく叱られる。とほほ。シャワーを浴びて、着替えてから中之島の140Bへ。鷲田先生と平川くんと江さんとラジオの仕事(のはず)。
約束より1時間前の4時についたら、もうみんな来ている。
みんなは「ナントカ大学」とかいう行政と代理店のからんだ文化的プロジェクトの打ち合わせをしている。
私は行政と代理店と(あとテレビ)とはコラボレーションしないことにしているので、あ、オレには関係ない話ねと思っていたら、覗き見したその企画書にはしっかり私の名前も担当講座も講座内容まで掲載してあった。
140B恐るべし。
『料理通信』という媒体のために「食における創造とは何か」という話をする。
聞き手は「だいはくりょく」と書いて「おおさこちから」と読む大迫力くんである。まことにユーモア感覚に富んだご両親である。
食における創造とは何か。
食文化とは「不可食のものを可食化するための創意工夫」と「みたことのない食材を何とか料理してしまうための創意工夫」によって構築されたものであり、その根本にあるのは「食えるものは何でも食う」という不退転の決意である。
それは人類史の99%が「飢餓ベース」であったことを考えれば当然のことである。
トマトがイタリアに入ってきたのは大航海時代のことである。
メキシコから持ち帰ったのである。最初は食用ではなく、観賞用であった。しかし、きわめて生命力が強く、果実が多いので、これを食用にしようとイタリア人が200年にわたって品種改良の結果、こんにちのトマトとなったのである。
だから、ヨーロッパでトマトが食用として受容されたのは18世紀のことなのである。
ジャガイモがユカタン半島からスペインに渡来したのは16世紀。唐辛子はコロンブスが新大陸から1493年に持ち帰った。
前に北イタリアで「スローフード」運動というものがあった。
マクドナルドの出店に反対して、イタリアの伝統的な食文化を守れという運動であった。
しかし、外来の食物を排除して、伝統的なレシピを守れという場合の「伝統」はどこまで遡るのか。
もし中世まで遡るのだとしたら、この「スローフード」のレシピにはトマトもジャガイモも唐辛子も使用してはならないことになるが、それでよろしいのか。
その場合は、「じゃあ、『伝統』は18世紀までにします」とか「19世紀まで」とか決めることになるが、その恣意的決定の根拠となるのは要するに「現代人が喰って美味いものが『伝統』と認定され、喰って不味いものは『伝統』から排除される」ということである。
自分ひとりで「うまいまずい」を言い募るのは夫子ご自身のご勝手だが、それを「伝統の味」とか大仰に呼ぶのは止めた方がいい。
というような話をする。
写真を撮られながら小道具のワインを飲んでしまったので、午後5時にはすでに酩酊。
その状態で、まず鷲田先生、平川くんと「教育についての鼎談」で30分二本勝負。こちらは FM 放送用なのでまじめに語り合う。
さらに江さんを加えて、こんどはワインを飲みながら「大阪論」30分二本勝負。こちらはラジオデイズの有料頒布コンテンツ。
四人ともだいぶお酒が入っているので、当然のことながら、こちらの方が圧倒的に面白い。
東京ファイティングキッズ対京都はんなり哲学者と岸和田だんじりガイの「東西決戦」のテーマは言語。
われわれ東京場末育ちの子供たちには京大阪のみなさんが享受しているような「地場の言語」というものがない、という話をする。
私も平川くんも「標準語」というもので育ったのであるが、それは私たちの両親のいずれの言語でもない(私の父は山形生まれ、母は神戸生まれ。平川くんのご両親はたしか埼玉出身である)。
隣近所の人々もみなばらばらの地方出身者である。
だから、地域の人々に共有されている「地場の文化」「地域の伝統」などというものは絶無である。
「標準語」という人工語と、地方出身者がとりあえず幻想的に手探りで作り上げた「戦後民主主義的な(隣組的ではないところの)地域社会」という人工的環境で私たちは育ったのである。
「あらかじめ言葉を奪われた子供たちだったのだよ、オレたちは」と平川くんが詩人的にまとめてくれた。
「京都や岸和田のように、地場の文化の厚みのあるところで育ったみなさんには『どこにも根のない人間』の不安と空虚はわからないであろう」とたたみかける。
おお、珍しく東京対関西文化競争で「東京の場末には文化なんてこじゃれたものがねえんだよ」という居直りでわりと優勢のうちに闘いを進めることができた。
われわれの街には「お好み焼き屋」さえなかったのだ。
というわけで、私たち「街も伝統も、あらゆる文化から疎外された東京南東バンリュー」に生まれた少年たちは、1960年代-70年代に「自前の言語」を作り出すことを余儀なくされたのである。
この欠落感と焦燥感には「東京北西バンリュー」の小田嶋隆さんも、私たちと同じ「多摩川沿い」育ちの柴田元幸さんも共感してくれるのではないかと思う。

金曜日は朝からゼミ。
さすがにげっそり疲れて、一度家に帰って寝る。
夕方重い身体をベッドから引き上げて、また中之島へ。
平川くんと朝日カルチャーセンターで「内向き論」をするのである。
江さんや青山さんや中島さんご夫妻や大迫くんら140Bのメンバーが来ているので、はげしい既視感にとらわれる。
昨日とはぜんぜん違って、人口減少(というより適正化)と経済活動の縮小、持続可能な資源利用という流れを「上がり」としてはいかがというご提言である。
私はここで21世紀日本のゆくべき道として、「鎖国攘夷論」を具申する。
そもそも1853年にペリーが来たのがよくなかったのである。
鎖国というのは自給自足、エントロピーを最小化するようにみごとにコントロールされた、歴史上もっとも成功した持続可能な社会システムである。
そして、鎖国時代の日本では海外の文物についての情報も「南蛮渡来グッズ」もかなり潤沢であったことが最近では知られている。
つまり法制上「鎖国」はしているけれど、けっこう「出入り自由」というところが鎖国体制の「味噌」だったのである。
これから後、各国は「保護主義的」な外交戦略を強めてゆくであろう。
「国際協調」「国際主義」がその反面において「単一の世界標準による諸国の均質化と格付け」という「グローバリズム」の鬱陶しさを携えていたことに諸国民はしだいに気づき始めている。
「いいじゃん、もうこっちの勝手にさせてくれよ」と言い出した。
グローバリズムの旗手であったアメリカがまっさきにそう言い出した。
他国にはあれほど「自由貿易」のルールの遵守を求めていながら、自国経済がピンチになったら、たちまち保護主義にシフトしようとしている。
日本の護送船団方式をがみがみ批判して、構造改革規制緩和を要求しておきながら、ころりと忘れて自国の企業や銀行の救済に国費をどぼどぼ投入している。
アメリカがそうなんだから、これからあと諸国は「右へ倣え」である。
資源大国は自国の資源を抱え込むようになる。
ドルなんかただの紙切れなんだから、いくらあっても食えない。
まずエネルギーと食糧の価格がいずれ高騰するだろう。
そして、食糧自給、エネルギー自給がどの国にとっても政策上の最優先課題になるはずである。
国家戦略として何が選択されるか。
もちろん、まず「少子化」である。人口を減らさないと食糧エネルギーが自給できないからね。
それから「無駄な活動の自粛」である。
みんな家でじっとしていて、なるべく出歩かない。
できたら、庭に畑を作り、鶏飼って、野菜と卵と鶏肉くらいは自給していただく、と。
なるべく電気を使わずに、暖房は薪ストーブ。夜は「行灯で書見」。移動手段も蒸気機関車に馬車。
むかし SF マガジンで読んだ『電獣ヴァヴェリ』の世界である(この SF では宇宙渡来の「電気エネルギーを食べる微生物」のせいで、地球が18世紀に戻ってしまうのである)
別にいますぐそういう世界にしろと申し上げているのではない。
「そういう世界でも、まあ、いいか」くらいの気構えでいると、国家戦略の選択肢が増えてよろしいのではないかと申し上げているのである。
講演後、江さんご夫妻、中島さんご夫妻、ヒラオくんと「黒門さかえ」で細うどんを食べる。
あ、と絶句するほど美味い。
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