小雨の中を赤坂プリンスホテルへ。
日経BPと講談社のジョイント企画で、小田嶋隆さんと岡康道さんの共著『人生二割がちょうどいい』(講談社)の販促のための対談。
小田嶋さんと会うのは久しぶりである。
「わすれないうちに、はい、お土産」と横川の釜飯のふた裏に愛イグアナの故イギーくんの横顔を画伯みずからカラーで描いた「ふた絵」を頂く。
「家宝にします」と押し戴く。
お昼ごはんをいただきつつ、おしゃべり。
「おふたりはどういう関係なんですか?」というご質問を受ける。
「ファンです」とお答えする。
私は 70 年代末に小田嶋さんが『シティロード』の欄外コラムを書いていたときからの 30 年に及ぶファンであり、『親子で楽しむパソピア7』以外の全著作を所有しているのである。
最初に数行のコラムを読んだときから、「この人は天才」と確信して、その著作を書店をめぐって探し出し、繰り返し読みふけっていたのであるから、私の先見性は評価されてよろしいであろう。
小田嶋さんと言葉の話をする。
トピックのひとつは、日本語で私たちが書くとき、それは厳密な意味での「言文一致体」と言えるであろうかという問題。
例えば、私がいま書いているこの言語はどうか。
これは日常では口にされない「書き言葉」なのか、それとも、ふだん話すままの「言文一致体」なのか。
小田嶋さんと私の意見が一致したのは、私たちが書き物で使っている言語はそのどちらでもなく、強いて言えば「言文一致のように見せかけた書き言葉」だというである。
Sightの鼎談で高橋源一郎、渋谷陽一ご両人としゃべったときには、「コロキアルな土着語ベースに、リテラリーな外来語が載っているハイブリッド言語」という言い方をした。
コロキアルな土着語はコミュニケーションのための「基礎」をつくる。
これは第一にコミュニケーションが成立していることを確認するために用いられる。
もっともプリミティヴなかたちだと、「もしもし」とか「後ろの方、聞こえてますか?」という類がそうである。
このメッセージには「コミュニケーションが成り立っている」という以外にコンテンツがない。
「コミュニケーションのコミュニケーション」とか「メタ・コミュニケーション」とか「交話的コミュニケーション」と呼ばれる。
このメッセージには誤解の余地がない。
あってはならない。
これが「かんどころ」である。
「後ろの方聞こえてますか?」というメッセージに「コミュニケーションの成立を確認する」以外の含意があったらたいへんに面倒である。
「『後ろの方聞こえてますか?』と言うことを通じて、この男は何を言おうとしているのか?」というような問いを立てて、苦悩してしまう人間は遠からず誰ともどのようなコミュニケーションもできなくなってしまう。
メッセージには「一義的でなければ困るメッセージ」と「多義的解釈に開かれているメッセージ」の二種類がある。
メッセージの「読み方を指示する」すべてのメッセージは一義的に、すなわち額面通り、字面の通りに受け取られなければならない。
もう一度ご注意願いたいが、このあらゆる言語的コミュニケーションを基礎づけ、条件づけるメッセージのことを「メタ・メッセージ」というのである。
メタ・メッセージはメッセージの中にランダムに紛れ込んでいる。
「ハイデガーの言うように、或るものの現れとしての現れは、おのれ自身を示すということを意味するのではけっしてないのであって、むしろ、おのれを示さない或るものが、おのれを示す或るものを通じておのれを告げるということを意味するのである。おい、聞いてんのかよ!」
というようなテクストにおいては、最初の「ハイデガーの言うように」と最後の「おい、聞いてんのかよ!」の二文がメタ・メッセージである。
最初の「ハイデガーが言うように」というのは、要するに「これからあとは引用です」ということである。「俺の意見じゃないよ」ということである。「だから、ふだん俺が言うことと全然違うことを言い出しても驚くなよ」ということである。
メッセージの解読の仕方についての指示であるから、このメタ・メッセージは絶対に読み落としてはならないし、読み違えてはならないのである。
最後の「おい、聞いてんのかよ!」も同断。
だから、ふつう今の文章については、「メタ・メッセージだけはわかったが、残りは意味ぷ〜でした」というのが一般読者の正常な反応なのである。
この反応ができるということは、メッセージの階層差が識別できているということであって、それが「リテラシー」と呼ばれる能力の本質なのである。
よろしいかな、そして、このメタ・メッセージはそれが包括しているメッセージコンテンツについて、その価値判断を下すことができるのである。
そのもっとも劇的な例。
「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。(笑)」(小田嶋隆 in 『九条どうでしょう』)
話を戻す。
このメタ・メッセージの運搬を私たちの母語では「土着語」が担っている。
どのような堂々たるコンテンツであっても、それを読み手、聴き手に届けるためには、「ヴィークル」が機能していなければならない。
そして、日本語における「ヴィークル」はコロキアルな言語なのである。
これがきちんと機能していないと、どれほど高邁な理念であっても、どれほど深遠な思想であっても、それはそもそもコミュニケートされない。
そして、それはただコミュニケートされるだけでなく、そのつどすでに「読み方を指示された」状態で、つまりそのコンテンツの送り手の私念私情を深く帯電したかたちでしかコミュニケートされえないのである。
その指示は、同時に現に自分が述べつつある言説についての批評や皮肉として機能することがある。
「俺の言うことなんか信じるなよ」というような信頼性の切り下げを指示することもまたメタ・メッセージの重要な分掌だからである。
「コロキアルな土着語に、リテラリーな外来語が載っている」という日本語の特殊な構造は、そのまま「コロキアルな土着語が発語における批評性を主に担う」という、たいへんにシビアな言語状況のうちに私たちを導くのである。
それゆえ、日本語話者においては「ほんとうにたいせつなメッセージ」はしばしば「言挙げされない」のである。
もっとも批評的なメッセージはしばしば言語にならないのである。
話を戻す(と言っておきながらなかなか戻らない)。
小田嶋さんや私が試みているのは、この「発語中でもっとも批評的なメッセージ(それはふつう表情やピッチやみぶりなどノン・ヴァーバルなかたちで示される)をむりやり言葉に載せてしまう」ことである。
それが「コロキアルな言文一致体のようにみせかけた文語の創造」という仕事を私たちに要求するのである。
別に目新しい話ではない。
私たちは聖徳太子の時代くらいからあと、ずっと「そういうこと」ばかりしてきたのである。
それが日本語をつうじての創造ということの本態的なかたちであるように私には思われるのである。
「小田嶋さんのどこに惹かれましたか?」という司会者からの質問にだから私は「言葉です」と即答したのである。
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(2009-05-25 14:58)