ゾンビの教訓

2009-05-21 jeudi

新型インフルエンザについて三紙からコメントを求められる。
私なんかにインフルエンザについて訊いてどうするのかと思うのだが、感染地域の真ん中に住んでいる人間の「市民目線」の感想を聞きたいと思ったのかも知れない(木によって魚を求むるの類だが)。
疫学についても医学についても何も知らない人間に訊く以上、それはインフルエンザそのものについてではなく、インフルエンザ禍の「人間的意味」についてのコメントなのであろうと判断して、それについて述べる。
メディアの一昨日あたりからの論調は「それほど毒性の強いインフルエンザでもないらしいのだから、あまり騒ぎ立てずに、柔軟に対応するほうがいい」というものである。
休校やイベントの中止が続くと市民生活に影響が出るから、「自粛するのを自粛せよ」というものである。
大阪府知事は「都市機能に影響が出る」と言った。
だが、感染地区がパニックに陥っているとか、都市機能が麻痺しているとかいうことは別に起こっていない。
たしかに街の人出は少ないし、歩いている人も大半がマスクを着用している。学校が休校なので、電車もがらがらである。
しかし、こういう事態を指すときに「パニック」とか「都市機能の麻痺」という言い方は不適切であろう。
現に、感染力の高いインフルエンザが蔓延して全国に拡がりつつあり、行政当局が「外出を自粛し、手洗いうがいを励行せよ」とアナウンスしているのを「そのまま」遵守している市民をつかまえて「騒ぎすぎだ」と言うのはどうであろうか。
仮に市民たちが「マスクを無料配布しろ」とか「医療費をすべて無料にしろ」とか「休業補償をしろ」とか言い出したというのなら、たしかにこれは「パニック」である。
でも、街の人々は自前でマスクを買って着用されており、自己負担で感染を予防されているのである。
これを「模範的市民」と呼ばずに何と呼ぶべきか。
インフルエンザが流行っているのに、「弱毒性だからカンケーねえよ」と誰も感染予防に配慮せず、行政が「自粛を」と呼号しても、気にせずふだん通りの社会活動を行い続け、その結果感染者が急増したというような事態の場合のために「都市機能の麻痺」とか「システム不調」という言葉はとっておくべきだろう。
現在の感染地区の市民たちほど「公共の福利」に配慮する市民を他国に見いだすことはむずかしい。
このような模範的市民に「過剰反応だから、社会活動を再開せよ」と政治家やメディアが言い出した最大の理由は「市民が外出しないので、消費活動が低迷している」からである。
要は「金の話」である。
だが、「感染のリスクが高いから外出を自粛してください」という公的アナウンスを解除するときに可能なロジックは「感染のリスクが低下しましたので、外出してもいいです」以外にはない。
「感染のリスクは引き続きありますが、みなさんがじっと家にこもっていると、モノが売れないので、外に出て、消費活動を始めてください」という言い分は論理的には成り立たない。
「論理的には成り立たない」が実践的にはつじつまを合わせないといけない、ということは人生には多々ある。
私も青二才ではないから、別にそれが「悪い」とは言わない。
「公衆衛生」か「経済活動」という比較考量しがたい二者択一を迫られるような機会がときには訪れる。
「インフルエンザの蔓延も困るが、経済活動の停滞も困る。さて、どちらがより困った事態か」という類の「究極の問い」に当惑するというのはごく自然なことである。
このような問いにどう対処するかについて「マニュアル」は存在しない。
「マニュアル」は存在しないが、その代わりに私たちには「物語」がある。
ハリウッドのC級映画では「ゾンビも怖いが、死なない兵士も捨てがたい、さて、どちらを取るか」とか「アナコンダも怖いが、不死の蘭エキスはぜひ手に入れたい、さてどちらを取るか」といった「究極の問い」をめぐってしばしばドラマが展開する。
これらの映画にだいたい共通する教訓は、「我が身の安全よりも、利益を選んだ人間はたいへん不幸な目に遭う」ということである。
私はこういう種類の説話原型の含む人類学的知見に対してはつねに敬意を以て臨むことにしている。
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