池谷さんの本を読む

2009-05-18 lundi

旅行中ずっと池谷裕二さんの『単純な脳、複雑な「私」』(朝日出版社)を読んでいた。
400頁を越すけっこうなヴォリュームであるが、一気に読んでしまった。
池谷さんからのかわいい(タツノオトシゴの)漫画サイン入りの本で、「今回の本は今までで一番気合いが入っています!」と書いてあった。
池谷さんとは以前、「PHP」の企画で対談したことがある。もう2年ほど前のことである。
私は「理系の人」と話をするのが大好きである。
養老先生、茂木さん、福岡先生、どなたも話が明快で、かつ深い批評性を備えている。
池谷さんも話していて、その頭脳の機能の高さに驚嘆したのを覚えている。
人間の脳や知性の構造について考察するときには、どこかで「自分の脳の活動を自分の脳の活動が追い越す」というアクロバシーが必要になる。
「私はこのように思う」という判断を下した瞬間に、「どうして、私はこのように思ったのか? この言明が真であるという根拠を私はどこに見いだしたのか?」という反省がむくむくと頭をもたげ、ただちに「というような自分の思考そのものに対する問いが有効であるということを予断してよろしいのか?」という「反省の適法性についての反省」がむくむくと頭をもたげ・・・(以下無限)
ということは「すごく頭のいい人」においては必ず生じるのであるが、ここで「ああ、わかんなくなっちゃった」という牧伸二的判断保留に落ち込まず、「いや、これでいいんだ」と、この無限後退(池谷さんはこれを「リカージョン」(recursion) と呼んでいる)を不毛な繰り返しではなく、生産的なものと感知できる人がいる。
真に科学的な知性とはそのような人のことである。
どうして、リカージョンが生産的であるかというと、ご本人にとってそれが「気持ちいい」からである。
最終的に思考の深化・過激化のドライブを担保するのは、考えている人自身の「あ、こういうふうにぐいぐい考えていると、気持ちいい」という「気持ちの問題」なのである。
でも、どうして「気持ちいい」ということが「よいこと」であると当人は確信できるのだろう。
池谷さんはこう書いている。

「人の役に立ったらうれしいし、自分も満足だしということで、だから科学はおもしろいんだ・・・そんなふうに普通の人は考えているかもしれない。
でも、科学の現場にいる人にとっては、そうじゃない。科学の醍醐味は、それだけに尽きるのじゃない。むしろ本当におもしろいのは、事実や真実を解明して知ることよりも、解明していくプロセスにある。
仮説を検証して新しい発見が生まれたら、その発見を、過去に蓄積された知識を通じて解釈して、そして、また新しい発見に挑む。高尚な推理小説を読み進めるようなワクワク感だ。難解なパズルのピースを少しずつ露礁させていくかのような、この謎解きの創出プロセスが一番おもしろい。」(池谷裕二、『単純な脳、複雑な「私」』、朝日出版社、2009,400頁)

興味深い「喩え」である。
池谷さんは本質的にリカーシヴなもの(つまり、絶対に「最終的解決」にたどりつかない)である科学の探求を「推理小説を読むワクワク感」と「難解なパズル」に喩えた。
世界を「書物」に喩えるのも、「謎」に喩えるのも、どちらも共通するものがある。
それは「書物を書いた人(推理小説の結末を知っている人)」「パズルを設計した人」が存在するということについての満腔の確信である。
推理小説を読んでいるときに、「最後まで読んでも、結局犯人はわかりませんでした」という可能性があったら、私たちはそれを読み続ける意欲を維持できないであろう。
パズルを解くときに、「結局解けないこともある」という可能性があっても同じである。
ある程度以上持続して知的活動を高止まりさせておくためには、「自分でこの難問が解ける」という確信ではなく、「〈誰か〉がすでに解いた」から「〈誰か〉がいずれ解いてくれる」ということについての確信が絶対に必要である。
その確信さえあれば、推理小説を途中まで読んだところで、あるいはパズルを途中まで解いたところで、昼寝をしたり、ごはんを食べに行ったり、場合によっては息絶えてしまっても、「ああ、たのしかった」という感想はあっても、時間を無駄にしたという気になることがないのである。
この〈誰か〉は、論理的には、「宇宙の設計者」以外にはいない。
だから、真に科学的な知性は、その絶頂において、必ず宗教的になるのである。
私たちは「私を超えるもの」を仮定することによってしか成長することができない。
これは人間の基本である。
子どもは「子どもには見えないものが見ている人、子どもには理解できない理路がわかっている人」を想定しない限り、子どものレベルから抜け出すことができない。
人間のすべての知性はそういう構造になっている。
「自分の知性では理解できないことを理解できている知性」(ラカンはそれを「知っていると想定された主体」sujet supposé savoir と呼んだ)を想定することなしに、人間の知性はその次元を繰り上げることができない。
科学者とは「普通の人よりたくさんのことを知っている主体」のことではない。
そうではなくて、「知っていると想定された主体」抜きには人間の知性は速度も強度も長くは維持できないという真理を経験的に知っている主体、すなわち「自分の〈生身性〉を痛感している主体」、「身体をもった主体」のことなのである。
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