学院標語と結婚の条件

2009-04-09 jeudi

新学期が始まる。
6日に入学式。
飯新学長の「ことば」を聞く。
学長就任の挨拶でもそうだったけれど、本学が「キリスト教のミッションを実現するために建学された」という基本理念をつよく訴える内容であった。
この時代に大学新入生に向かって「自己利益をどうやって増大させるか」については一言も触れず、「神と隣人を愛し、敬し、仕える」ことを、ほとんどそれだけを説いたスピーチを行うということは、「反時代的」だととる人もいるかもしれない。
でも、私はそう思わない。
これはすぐれて「今日的な」メッセージだと思う。
私たちの社会がこの 20 年で失ったのは「隣人と共生する能力」と「私の理解も共感も絶した超越的境位についての畏敬と想像力」である。
「愛神愛隣」というのは、そのことだと私は理解している。
学長は「学風」「校風」ということにスピーチの中で何度か言及した。
それは具体的な教育プログラムのことではないし、もちろん設備や規則のことではない。個々の教師の教育理念や教育方法のことでもない。
そのようなものすべてを含んで現にこの学校という「想像の共同体」を生かしているもののことである。
私がこの共同体に含まれて 20 年になる。
この場所は(それまでさまざまな共同体から排除されてきた)私を受け容れてくれただけでなく、私に働き場所と、生きがいを与えてくれた。
新入生たちが私や私の同僚たちやここに学んだすべての学生たちと同じように、この共同体に親しみ、そこで安らぎと癒しと、生きる知恵と力とを得ることができますように。

火曜日、新入生オリエンテーション。
教師 1 人が新入生 10 人とお昼を食べるイベントである。
学生たちに自己紹介してもらい、お手伝いに来てくれた上級生(フルタくん、ヤナイくん、ありがとうね)に大学生活の心得についてお話ししてもらう。
私からのメッセージは簡単で、「できるだけ長い時間をこのキャンパスで過ごすように」ということだけ。
最初のうちに単位をかき集めて、あとはバイトと就活で学校に寄りつかないというような学生がいるけれど、これはほんとうにもったいない大学生活の過ごし方だと思う。
時間割はゆったりと組んで、ひとつひとつの科目について、課題や下調べに十分な時間が確保できるようにすること。
授業が終わったら山をかけおりてバイトに行くようなことはせずに、授業のない時間帯もできるだけ大学の中にいること。散策するもよし、図書館で勉強するもよし、講堂でパイプオルガンを聴くもよし、クラブ活動をするもよし。
このキャンパスに設計者のヴォーリスはたくさんの「秘密の小部屋」や「秘密の廊下」を仕掛けた。
自分で扉を開けて、自分で階段を上って、はじめて思いがけない場所に出て、思いがけない風景が拡がるように、学舎そのものが構造化されているのである。
自分が動かなければ、自分が変わらなければ、何も動かない、何も変わらない。
これはすぐれた「学び」の比喩である。
このキャンパスにいる限り、感覚をざわつかせるような不快な刺激はほとんどない。
それは自分の心身の感度をどこまで敏感にしてもよいということである。自己防衛の「鎧」を解除してよいということである。
感度を上げれば上げるだけ五感は多くの快楽を享受することができる。
そんな環境に現代人はほとんど身を置く機会がないのである。
「心身の感度を上げる」ということは「学び」という営みの核心にあり、その前提をなす構えである。
それを可能にする場所であるかどうかということが学校にとって死活的に重要であると私は思う。
本学はそれが可能な例外的なスポットである。
その特権をどうか豊かに享受してほしいと思う。
というようなことを述べる。

午後は AERA の取材。
「婚活」について。
結婚について年来の持説を述べる。
どのような相手と結婚しても、「それなりに幸福になれる」という高い適応能力は、生物的に言っても、社会的に言っても生き延びる上で必須の資質である。
それを涵養せねばならない。
「異性が10人いたらそのうちの3人とは『結婚できそう』と思える」のが成人の条件であり、「10人いたら5人とはオッケー」というのが「成熟した大人」であり、「10人いたら、7人はいけます」というのが「達人」である。
Someday my prince will come というようなお題目を唱えているうちは子どもである。
つねづね申し上げているように、子どもをほんとうに生き延びさせたいと望むなら、親たちは次の三つの能力を優先的に涵養させなければならない。

何でも食える
どこでも寝られる
だれとでも友だちになれる

最後の「誰とでも友だちになれる」は「誰とでも結婚できる」とほぼ同義と解釈していただいてよい。
こういうと「ばかばかしい」と笑う人がいる。
それは短見というものである。
よく考えて欲しい。
どこの世界に「何でも食える」人間がいるものか。
世界は「食えないもの」で満ち満ちているのである。
「何でも食える」人間というのは「食えるもの」と「食えないもの」を直感で瞬時に判定できる人間のことである。
「どこでも寝られる」はずがない。
世界は「危険」で満ち満ちているのである。
「どこでも寝られる」人間とは、「そこでは緊張を緩めても大丈夫な空間」と「緊張を要する空間」を直感的にみきわめられる人間のことである。
同じように、「誰とでも友だちになれる」はずがない。
邪悪な人間、愚鈍な人間、人の生きる意欲を殺ぐ人間たちに私たちは取り囲まれているからである。
「誰とでも友だちになれる」人間とは、そのような「私が生き延びる可能性を減殺しかねない人間」を一瞥しただけで検知できて、回避できる人間のことである。
「誰とでも結婚できる」人間もそれと同じである。
誰とでも結婚できるはずがないではないか。
「自分が生き延び、その心身の潜在可能性を開花させるチャンスを積み増ししてくれそうな人間」とそうではない人間を直感的にみきわめる力がなくては、「10人中3人」というようなリスキーなことは言えない。
そして、それはまったく同じ条件を相手からも求められているということを意味している。
「この人は私が生き延び、ポテンシャルを開花することを支援する人か妨害する人か?」を向こうは向こうでスクリーニングしているのである。
どちらも「直感的に」、「可能性」について考量しているのである。
だから、今ここでその判断の正しさは証明しようがない。
それぞれの判断の「正しさ」はこれから構築してゆくのである。
自分がその相手を選んだことによって、潜在可能性を豊かに開花させ、幸福な人生を送ったという事実によって「自分の判断の正しさ」を事後的に証明するのである。
配偶者を選ぶとき、それが「正しい選択である」ことを今ここで証明してみせろと言われて答えられる人はどこにもいない。
それが「正しい選択」であったことは自分が現に幸福になることによってこれから証明するのである。
だから、「誰とでも結婚できる」というのは、言葉は浮ついているが、実際にはかなり複雑な人間的資質なのである。
それはこれまでの経験に裏づけられた「人を見る眼」を要求し、同時に、どのような条件下でも「私は幸福になってみせる」というゆるがぬ決断を要求する。
いまの人々がなかなか結婚できないのは、第一に自分の「人を見る眼」を自分自身が信用していないからであり、第二に「いまだ知られざる潜在可能性」が自分に蔵されていることを実は信じていないからである。
相手が信じられないから結婚できないのではなく、自分を信じていないから結婚できないのである。
というような話をする。
そのあと AERA のみなさんと三宮のステーキハウス KOKUBU で、神戸牛ステーキを食しつつ、国分さんの秘蔵ワインをじゃんじゃん開けて飲む。
そこに、かなぴょんがクリスくんというグアム島の合気道家を連れて来る。お客は二組だけなので、お店はウェイトレスのヨハンナも含めて、合気道関係者ばかりとなる。

8日はひさしぶりの休日。
でも忙しいことの変わりはない。
朝まず三宅接骨院でメンテナンスしてもらう。
それから下川先生のところで『山姥』のお稽古。
もどってメールを開くと、締め切り過ぎた原稿が3本たまっていた。泣きながら原稿書き。
夕方から元町に出て、大丸でシャツを買い、東急ハンズで財布とライターを買う。
家に戻って「チャーシュー麺」を作って食す。
食べた後また原稿書き。
たまの休日なのに、ばたばた走り回っているうちに終わってしまった。
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