忙しい一週間でした

2009-02-01 dimanche

今日の県民武道大会で「とっても忙しい一週間」が終わる(予定)。
26日が神戸国語教育研究会で講演。27日が神戸大学付属住吉中学で講演。それから大学で会議、ゼミ、下川先生のお稽古。28日が11時からインターンシップの打ち合わせ、取材が2件、写真撮影が1件。そのあと釈先生、フジモトさんと講談社の加藤さん、山中さんとペルシエで会食。『現代霊性論』がめぐりめぐって講談社に「養子」に出されることになったのである。
この日、加藤さんは奈良地裁での公判で被告側証人として出廷した帰り。草薙さんの本を出版したのは講談社の判断ミスという会社をきびしく批判する証言をしたのである。
お疲れさまでしたということでシャンペンで乾杯してから、あの本の出版をめぐるコンフィデンシャルな話をいろいろ伺う。
えええ、そうなんですか〜的オドロキ満載であるが、もちろんこのようなところで公開するわけにはゆかぬのである。
出版社もいろいろご苦労の多いお仕事である。
おいしいフレンチを食べながら、宗教学者の釈先生と「絶対本にならない『肉の話』」をする。
なぜ「食肉」について人間はさまざまな宗教的禁忌を持っているのか。禁忌を犯したことへの「自罰」を人間社会はどのように制度化しているか、という話。
前に養老先生とも『考える人』のときに同じ話題で2時間ほど話したことがあったけれど、これはさっくり削除されていた。
たいへんに興味深いのだが、諸般の事情により決して活字にすることのできないトピックというものが存在する。
「肉の話」はその一つである。
それがこれまで活字化されてこなかったというのは、たぶん活字化されるべきではないということを直感的に私たちが感知しているからである。
禁忌というのはその必要性が説明できないときにこそ効果的に機能する。そして、この禁忌はたしかに人類が生き延びるためには必要なのである。
ペルシエから家に戻って毎日新聞を拡げたら、今駅前で別れたばかりの加藤さんの写真が社会面に大きく出ていた。
「おお」と思って次の頁をめくったら、今度は自分の顔写真と遭遇してしまった。

28,29,30日は地方入試。前日現地入りなので、28日の昼過ぎに天王寺へ。
天王寺なら御影からも電車で通えるのであるが、試験問題の管理ということがあって、前夜には監督者が施錠したトランクを抱いて寝なければいけないのである。
試験はA日程B日程と二日別の試験があるので、天王寺に二泊する。
カレー臭と場末感の漂うナイスなホテルで三日近く過ごすうちに、天王寺のディープ感に次第に身体がなじんでくる。
試験はなにごともなく無事終了。みなさん、お疲れさまでした。

明けて31日はかねてより予定の関川夏央さんを囲んでのシンポジウム、「大学で文学を教えるということ」。
関川さんも神戸女学院の空気にだいぶなじんでこられたようで、たいへんグルーヴ感のある貴重報告をしてくれる(ふだんの関川さんはもうすこし脇が固いのだけれど、うちのオーディエンスは「ほわん」としているので、しゃべる方も圭角が取れて、ついドライブしてしまうのである)。
それから難波江先生、飯田先生といっしょに居酒屋カウンター的文学論をわいわいと1時間。
いま、日本中の大学から「文学部」という名称がなくなりつつある。「文学研究をしたい」と言って入学してくる学生もほとんどいない。
文学に対する評価はたぶん明治以来今が最低だろう。
それは「文学を創作すること」「文学を批評すること」「文学を研究すること」が職業として成立してしまったことの「ありがたさ」を、当事者たちがすっかり忘れてしまったことにたぶん関係がある。
私たちは「暇人の暇ごと」をしている。
まさに、そのような世上無益のことに大の大人がかかずらわっているという事実についての「疚しさ」ゆえに、文学にかかわる人間は「大の大人がこんなことにかかずらわっていることのやむにやまれなさ」についてのアカウンタビリティを負う。
文学は「正業」ではない。
そして、それゆえに「正業とは何か?」ということを絶えず自問することを構造的に強いられている。
「自分がここでこんなことをしていることに意味はあるのか?」という切実な問いを抱え込んでいるということそれ自体が文学の手柄であると私は思っている。
文学も文芸批評も文学研究も文学部も、軒並みダメになったのは、文学にかかわる人間たちが自分たちの仕事を「正業」だと思い始めたからである。
文学部がダメになったのは、看板を「現代文化学部」とか「国際情報学部」とか「人間総合研究学部」とかつけかえると「正業らしく見えるんじゃないか」と思ったというような「浅はかさ」ゆえである。
文学はどう転んでも「正業」にはならない。
胸を張って「文学してます」と言えないという、この「疚しさ」が文学のたったひとつの「いいところ」なのである。
かつて文学が君子の必須であったのは、ヒエラルヒーの上層にいる人間には「自分はこんなところで、こんなことをしている資格がほんとうにあるのだろうか?」という切実な懐疑に囚われていることが必要だからである。
「私にはこれらの権力や財貨や文化資本を享受する『資格』がある」と思っている人間には絶対に権力や財貨や文化資本を与えてはならない。
これは万古不易の人類学的ルールである。
そんなことをしたら「交換」が停止してしまうからである。
「貸し家と唐様で書く三代目」というのは、文学が「没落の装置」だということをみごとに言い表した俚諺である。
そして、「没落のための装置」は穏やかで余情のある社会的流動性を担保するために必須のものなのである。
関川さんが基調講演で繰り返し強調したのは「文学はある種の “醜業” だ」ということである。
まともな家の子どもが就くものではない。
それでも「やりたい」という子どもは文字通り「自己責任」において文学をやるしかない。
そういう条件を課してはじめて「文学をやることの意味(というよりは社会的な無意味さ)」について熟慮する仕事が始まる。
今の日本で「文学部」の看板を掲げているということは、「私に生きる価値はあるか?」という問いをおでこに貼り付けて生きているようなものである。
こういう問いを引き受けて生きる「狂」の人が社会には一定数(一定数で十分だが)必要である。
ほとんどの大学から文学部が消えて、いくつかの文学部が残る。そこで人々は「私たちには生き残っただけの理由があるのだろうか?」という重い問いを抱えて生きている。
そういうのが「好き」という人たちだけが文学部に集まってくる。
心温まる光景である。

「美とは痙攣的なものだろう。さもなければ存在しないだろう。」
La beauté sera convulsive, ou ne sera pas

というのはアンドレ・ブルトンの『ナジャ』の最後のフレーズだが、この「美」は「文学」に置き換え可能だと私は思う(昔、このフランス語を「美とは痙攣的なものだろう。さもなければ痙攣的でないだろう」と訳してげらげら笑うというのが竹信くんと私の間のお約束であった・・・合掌)
そのあと、東京からいらした文藝春秋の担当編集者の石原さん、大村さん、弁護士の近藤さんとそのお弟子さまたち、あまから手帖と双葉社のエディターさんたちと「並木屋」にて打ち上げ。
みなさん、ご苦労さまでした!
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