学びと暗黙知

2009-01-28 mercredi

後期最終日。
朝から忙しい。
11時にアートマネジメントのインターンシップについて連絡のため登校。
お昼ごろに卒業生の福田くん(チナツじゃないよトモカだよ)が来る。卒業後の波瀾万丈(でもないけど)について事情聴取。
社交館でいっしょにご飯を食べる。
それから取材が2件、写真撮影が1件。
写真なんか「ありものでいいでしょ」と言ったのだが、ダメだといって、わざわざ撮りに来たのである。
カメラマンと担当の他に、ただ私に名刺を渡すだけのために代理店やメーカーの広報担当など5人来た。
もはやそういう無意味な商慣行が許容されるような経済環境ではないと思うのだが、彼らはまだそれに気づいていないのか、気づいていないふりをしている。
取材はNTT東日本の社内報とEsquire。
どちらも、どうしてこんなに日本人は「学ぶ」ことが苦手になってしまったのかという話。
そういえば、同じような話を日曜日の神戸国語教育研究会でも、月曜日の付属住吉中学でもした。
同じトピックをあれこれの角度からしゃべっている。
昨日は「学び」が起動するためには「前・学び」的な機制を整える必要がある、という話をする。
「学び」というのは、「学ぶことの有用性や意味があらかじめわかったので、学び始める」というようなかたちでは始まらない。
それは商品購入のスキームである。
「学び」というのは、「その有用性や意味がわからないもの」(私たちの世界はそのようなもので埋め尽くされている)の中から、「私にとっていずれ死活的に有用で有意なものになることが予感せらるるもの」を過たず選択する能力なしには起動しない。
「学び」を可能にするのは、この「意味のわからないものの意味が予見できる力、有用性がいまだ知れないものの潜在的な有用性がかすかに感知できる力」である。
この力がなければ、子どもたちは「子どもでもその有用性や意味のわかる知識や技能」だけを選択することになる。
そして、「子どもでもその有用性や意味のわかる知識や技能だけ」では私たちは困難を生き延びてゆくことができない(それが「子ども」という言葉の定義である)。
私たちの社会が組織的に破壊してきたのは、子どもたちの中に芽生えようとしているこの「意味のわからないものの意味が予見できる力、有用性がいまだ知れないものの潜在的な有用性がかすかに感知できる力」である。
マイケル・ポランニーはこれを「暗黙知」と呼んだ。
これは識閾下で働く能力であり、意識的に操作することができないし、意識的に操作しようとすると、機能しなくなる。
例えばバイクの運転はきわめて複雑な身体操作の総合によって成立しているが、この操作を個別的に意識化すると、運転がうまくゆかない。
コーナリングにおいてはコーナーの出口一点に感覚を集中させることが必要であり、全身はその一点をめざして複雑に連動する。だから、例えば、障害物や接近してくる車両があり、「それ」を避けようとして、「それ」を意識しながら運転すると、バイクの運転はきわめて困難になる。
特に、高速で運転している場合、前方に障害物があり、ライダーが「それ」を見つめてしまうと、バイクはピンポイントでその障害物めがけて突っ込んでゆく。
「目標に気づかぬうちに吸い寄せられる」という仕方でバイクのライディングテクニックが「暗黙知」的に構造化されているからである。
私たちの知的操作・身体操作のほとんどは「暗黙知」によって「したごしらえ」されている。
意味や有用性(「これを学ぶと高額の年収が得られる」というような)によって子どもの学習を動機づけるということは、「暗黙知」の発動を止めることである。
初等・中等教育課程の相当部分は「暗黙知」開発のためのプログラムであるべきだと私は思っている。
そこで「今は何の役に立つのかわからないけれど、いつか自分の命を救うことになりそうなもの」を探り当てる感覚を練磨するのである。
それが「学び」の前段ということである。
これが整っていない子どもは「今学んでいることの有用性」(それは「それがもたらす年収の増額分」としてのみ把握されている)についての確信が揺るいだ瞬間に、自動的に学ぶことを止める。
私たちは過去 30 年にわたって、子供たちをそのように訓練してきたのである。
「あらゆる教育プログラムの効果はエヴィデンス・ベーストで示されねばならぬ、数値的にその効果が示せないような教育プログラムは無価値である」という妄想に日本の教育行政の当事者たちも教育評論家も教育ビジネスマンも取り憑かれている。
これは「病気」を通り越して、ほとんど「狂気」と呼ばねばならないと私は思っている。
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