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入試「改革」のご提言について

センター入試の日に新聞の社説に入試改革の提言が載せられている。
毎日新聞の社説子はこう書いている。
「少子化や規制緩和の大学増設なので大学の学生獲得競争が次第に強まり、科目を減らしたり独自学力試験をしないなど、試験を安易にする傾向が現れた。
時間をかけ多角的に審査するはずのAO(アドミッション・オフィス)入試や従来の推薦入試も形骸化が指摘される。4割以上が学力検査をくぐらず入学するまでになっている。
一方で大学生の深刻な学力低下が報告される。6割の大学が高校レベルの補習をするなど基礎学力の補完をしている。そうしないととても専門教育ができないという。基本的な教養の欠落も指摘されている。」
ご指摘の通りである。
そのことに私たち大学人も深く苦しんでいる。たぶん、日本でいちばんそのことに苦しんでいるのは、「基礎的な学力」のない学生たちと現場で向き合っている私たちである。
そのわれわれに向かって論説委員はこう言う。
「だが、より根本の問題は学習意欲や動機付けだ。日本の子供たちが勉強を楽しんだり、将来の夢と結びつけたりすることが相対的に希薄なことは国際比較調査にも表れている。入試改革は単に受験知識を増加させればよいのではなく、適性や意欲、好奇心などを土台とする基礎学力をより的確に見いだすものへ変わらなければ真の改善にはほど遠い。」
これを読む限り、社説子はこの状況をなんとかする責任がかかって大学にあり、かつテクニカルには入試改革によって「状況は何とかなる」と思っておられるようである。
私はこの4月から本学の入試の総括責任者になる身であるから、このような文言をすらすらと読み過ごすことはできない。
子供たちに学習意欲や動機づけが不足していることは事実である。
現場にいるとはっきりわかることは、それが「構造的なもの」だということである。
厳密に言えば、今の日本の子供たちは学習意欲や動機づけが「不足している」のではない。
話は逆である。
「学習しない意欲」「学習しないことへの動機付け」が「過剰」なのである。
彼らが専門知識も基礎教養も身につけないのは、そう「したいけれど、できない」からではなく「そうしたくない」からそうなっているのである。
現在の日本の平均的な大学生新入生のTOEICスコアーはたぶん350点くらいである。
これは中学2年生程度の英語力である。
中学高校で6年間英語を勉強してきて、その結果、中学2年生程度の学力しか身につけずに済ませるというのは、よほどつよい動機付けがなければ達成できることではない。
これは教育方法が間違っているとか、教師に教育力がないからだと言ってすませることのできるような事態ではない。
「学びからの逃走」(@佐藤学)へのつよい意欲が子供たちを駆動している。
なぜ、子供たちは学ぶことをこれほど激しく忌避するようになったのか。
その理路については『下流志向』でも『街場の教育論』でも詳述したので、もうここでは繰り返さない。
だが、社説子は、これを私たちの社会を根本から腐らせている構造的な問題だと考えてはいないようである。
それは「子供たちに学習意欲や動機づけを持たせようと思ったら、それを入試で数値的に考量できるように工夫しろ」という主張から伺える。
「学習意欲や動機付け」が広く子供たちのうちにゆきわたっており、ただ、その濃淡の差があるだけなら、それを数値的に考量する入試方法もあるいはありうるかもしれない。
私には思いつかないが。
というのは、学習意欲や動機付けはふつう「受験知識」の増大を伴うからである。多少のずれはあっても、学習意欲があればあるほど知識は増え、それだけ正解率は高まる。
私たちはそういうふうに考える。
受験知識とは別立てに、純粋状態の「学習意欲や動機付け」だけを取り出して見せろといわれても、私には方法が思いつかない。
私だけでなく、そんな入試方法を思いつける大学教員はどこにもいないだろう。
そこでお訊きしたいのだが、社説子は「受験知識とはかかわりなく、学習意欲や動機付けだけを考量する」ために例えばどのような入試方法があると考えているのであろうか。
こういうものがある、と教えていただければ私たちもその導入の可能性について検討できる。
まずそれをお示し願いたい。
話はそれからだ。
おそらく社説子は「学習意欲や動機付けを示すことができれば、受験知識がなくても大学に入れる」というような利益誘導をすれば、子供たちは学習意欲や動機付けを身につけるようになると考えているのであろう。
けれども、教育危機を生み出したのはまさにこの「こうすれば『いいこと』があるよ」という利益誘導によって子供たちを学習に導くという教育観そのものなのである。
競争において相対優位を占める「努力」に適正な「報酬」を約束するという「努力=報酬相関システム」の導入によって、日本の子供たちは勉強することを止めた。
利益誘導によって、私たちは子供たちに「学力そのものには何の内在的な価値もなく、それによって得られる報酬こそが一次的に有用なのである」という信憑を刷り込んでしまったからである。
その結果、子供たちは「学力を身につけること」よりも、「学力による序列付けで高いポジションを得ること」を優先させるようになった。
努力の「費用対効果」を配慮すれば、競争における相対優位を得る方法は一つしかない。
それは同学齢集団(競争相手)全体の学力を低下させることである。
黙って勉強して、自分一人の学力を向上させる努力は自分にしかかかわらないが、教室で私語し、立ち歩き、学級崩壊を達成すれば、クラス全員の学習意欲を損ない、動機付けを傷つけることができる。
「自分の学力を上げる」よりも、「他人の学力を下げる」方が圧倒的に費用対効果がよい。
競争における相対優位を「目的」にすれば、子供たちは必ずそのような合理的判断に導かれる。
そして、現に導かれた。
子供たちの学習意欲と動機付けを阻害しているのは、学ぶことそれ自体には何の意味もなく、意味があるのは競争と選別であるというイデオロギーそのものである。
そして、社説子が言うような「学習意欲と動機付けを考量する入試方法によって、子供たちを競争させ、選別せよ」という提案もまたそのようなイデオロギーの手垢のついた再版にすぎないのである。
学校は序列化や選別のための装置ではない。
その根本のところに日本の教育はもう一度立ち戻らなければならない。

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2009年01月20日 10:10 に投稿されたエントリーのページです。

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