大統領就任演説を読んで

2009-01-22 jeudi

20日、バラク・オバマが第44代アメリカ大統領に就任した。
その就任演説を読む。
そのまま英語の教科書に使えそうな立派な演説である。
アメリカという国が「もともとある」共同体ではなく、国民ひとりひとりが自分の持ち分の汗と血を流して創り上げたものだという考えが全体に伏流している。
その建国にかかわった人々への言葉が印象的である。

For us, they packed up their few worldly possessions and traveled across oceans in search of a new life.
私たちのために、彼らはわずかばかりの身の回りのものを鞄につめて大洋を渡り、新しい生活を求めてきました。

For us, they toiled in sweatshops and settled the West; endured the lash of the whip and plowed the hard earth.
私たちのために、彼らは過酷な労働に耐え、西部を拓き、鞭打ちに耐え、硬い大地を耕してきました。

For us, they fought and died, in places like Concord and Gettysburg; Normandy and Khe Sahn.
私たちのために、彼らはコンコードやゲティスバーグやノルマンディーやケサンのような場所で戦い、死んでゆきました。

Time and again these men and women struggled and sacrificed and worked till their hands were raw so that we might live a better life.
繰り返し、これらの男女は戦い、犠牲を捧げ、そして手の皮が擦り剥けるまで働いてきました。それは私たちがよりよき生活を送ることができるように彼らが願ったからです。

They saw America as bigger than the sum of our individual ambitions; greater than all the differences of birth or wealth or faction.
彼らはアメリカを私たちひとりひとりの個人的野心の総和以上のものと考えていました。どのような出自の差、富の差、党派の差をも超えたものだと見なしていました。

This is the journey we continue today. We remain the most prosperous, powerful nation on Earth.
彼らのたどった旅程を私たちもまた歩み続けています。私たちは今もまだ地上でもっとも栄え、もっとも力強い国民です。

Starting today, we must pick ourselves up, dust ourselves off, and begin again the work of remaking America.
今日から私たちはまた立ち上がり、埃を払い落とし、アメリカを再創造する仕事に取りかからなければなりません。

よいスピーチである。
政策的内容ではなく、アメリカの行く道を「過去」と「未来」をつなぐ「物語」によって導き出すロジックがすぐれている。
「それに引き換え」、本邦の政治家には「こういう言説」を語る人間がいない。
それを日本の政治家は「見識がない」とか「器が小さい」とか端的に「バカだから」とかいって済ませてもあまり生産的ではない。
私はいま「日本辺境論」という本を書いているのだが、タイトルからわかるように、日本人というのは「それに引き換え」というかたちでしか自己を定義できない国民である。
水平的なのである。
「アメリカではこうだが、日本はこうである」「フィンランドはこうだが、日本はこうである」というようなワーディングでしか現状分析も戦略も語ることができないという「空間的表象形式の呪い」にかかっている。
オバマ大統領のスピーチには、「アメリカはこうだが、ロシア(中国、EU、イスラム諸国などなど)はこうである」という水平方向の比較から「アメリカの進むべき道」を導くという論理操作が見られない。
アメリカ人のナショナル・アイデンティティを基礎づけ、賦活させるためには「他国との比較」は必要ないのである。
「われわれ」が何ものであるかを「他者の他者」というかたちで迂回的に導き出す必要がないのである。
「われわれはかつて・・・であった」だから「これからも・・・であらねばならぬ」が自動的に導かれ、その(よくよく考えるとぜんぜん論理的でない)ロジックに国民の過半が感動的に頷いてしまう、というようなかたちでアメリカは国民的統合を果たしている。
私たちにはこれができない。
「過去の日本」はどうであったのか、「未来の日本」はどうあるべきなのか、という「時間軸」の上にナショナル・アイデンティティを構想するという発想そのものが私たちには「ない」からである。
1868年には「ご一新」があり、1945年には「一億総懺悔」し、何かいやなことがあるとすぐに「改元」し、「終わったことは水に流し」、大晦日を過ぎると借金がチャラになるような生活倫理で生きてきたので、過去と未来を繋ぐ壮大な「物語」というのが「ない」のである。
ナショナリストからしてそうである。
彼らもまた「アメリカ人は愛国心がある」とか「フランス人は自国の文化に誇りを持っている」とかいう「それに引き換え」法によってしか、日本人のナショナリズム復興の喫緊であることを論証できない。
よその国のことなんか眼中になく、「うちは昔からこうであった。今もこうである。これからもこれでゆく」というのが「本態的ナショナリズム」である。
その「本態的ナショナリズム」の実現プロセスではじめて「他国」というものが登場してくる。
アメリカはそうである。
日本は違う。
日本はまず比較原器となる「他国」を決める。それから、「それに引き換えわが国は・・・」というかたちで自己規定を果たす。
このところずっと日本にとっての比較原器はアメリカである(それより前、卑弥呼の時代から幕末までは中国であった)。
ね。
ご覧の通りである。
こうやって現に私自身が日本の特殊性を論じるときすでに「アメリカではこうである。それに引き換えわが国は・・・」というワーディングを使ってしまっているではないか。
私たちはこのワーディング以外では日本について語ることができないのである。
少なくとも日本人読者を「頷かせる」ためには、この語法を採用する以外に手だてがないのである。
ということをしみじみ感じたオバマ大統領の演説であった。
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