厭味なインタビュイー

2009-01-18 dimanche

取材が続く。
火曜日が講談社の Grazia、水曜がリクルートの受験雑誌、木曜が朝日新聞。
取材のお題はそれぞれ「30代女性の生き方」「親は受験生をどう育てるべきか」「モンスター・ペアレンツ」
まことにさまざまである。
どのメディアに対しても基本的には同じことをお答えする。
「そういうことはあまり問題にしないほうがいいですよ」である。
これらの問いはいずれも「人間の生き方」「育児戦略」「公民としてのあり方」については「あるべきかたち」が存在し、「あるべきかたち」ではないことがさまざまな不幸を生み出しているという論理形式を前提している。
このような信憑を刷り込まれることで一部の人間は向上心を掻き立てられるが、ほとんどの人(「向上心はなくはないが、行動が伴わない」タイプの人たち)はあまり幸福にはならない。
そういう人たちの前に「成功事例」をニンジンのようにぶら下げてもあまり「いいこと」はない。
それはそのようなニンジンを見せられなければ生まれることのなかったような焦燥感や不充足感や自己卑下を植え付けるだけだからである。
でも、焦燥感や不充足感や自己卑下がもたらす「いいこと」もある。
それは「金遣いが荒くなる」ということである。
人間は商品を購入するとき(それもできるだけ無意味な蕩尽を行うときに)に一時的にだが自分の運命の支配者であるような全能感めいたものを感じるからである。
不充足感を消費行動によって全能感に切り替えるという自己詐術のうちに人々を追い込むことによって、資本主義は久しく繁昌してきた。
当たり前のことだが、今の自分のありようにそこそこ満足している人間の消費活動は、可処分所得とかかわりなく、不活発である。
だから、資本主義社会のメディアはすべて「現状に満足するな」ということだけをアナウンスしている(嘘だと思ったら手元の新聞でも雑誌でもめくってみたらよろしい。「現状に満足しましょう。日本もあなたもこれでいいじゃないですか」と書いている記事をみつけてご一報くだされば粗品を差し上げてもいいくらいである)。
そうしないとモノ(新聞や雑誌やテレビ番組もモノである)が売れないからである。
しかし、それは資本主義の側の事情であって、人間の側の事情は違う。
人間はできるだけ「ありもの」に満足しているほうが幸福である。
自分の生まれた境涯に満足し、自分の容貌に満足し、自分の才能に満足し、自分の健康状態に満足し、自分の配偶者に満足し、自分の子供に満足し、自分の国に満足し、たまに鏡を見て、「ま、こんなもんだわな」とへらへらしている鼓腹撃壌タイプの人間がいちばん幸福である(ほんとに)。
「鼓腹撃壌」とは、そういう方たちがマジョリティであるようなのが人間社会の理想だという考え方である。
向上心に駆られて他人の分まで仕事をばりばりやるような人は一握りいればよい。
この人たちは「向上人という病」に罹患しているのだから、これはこれで放っておけばよろしいのである。
けれども、そのようなタイプの人間は人口の7%程度で十分である。せいぜい10%が限度で、それ以上いてもらっては却て困る。
ところが資本主義というのは人口の100%が「現状に不満足」であることによって市場を無限に拡大するシステムであるので、私たちが「ま、こんなもんでいいのでないの」という言葉を口にすることを許してくれない。
メディアもまた資本主義の中にビルトインされた装置であるから、決して「こんなもんでいいのでは」ということを口にしない。
すべての制度は危機的であり、あらゆることはただちに、徹底的に、変革されねばならないというのがメディアにおける「ふつう」の語法である。
そういうメディアの惰性化した語法そのものが今や「危機的」であり、それこそ「ただちに、徹底的に変革されねばならない」当のものではないんですか、とたいそう嫌みなことを申し上げる。
取材が来るたびに、こんなふうに長々と厭味を言うところから始めるというパターンでこのところずっと取材をお受けしているので、いずれどこからもインタビュー依頼が来なくなるであろう。
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