「おせっかいな人」の孤独

2008-12-20 samedi

鹿児島に行った話を書き忘れていた。
鹿児島大学におつとめの旧友ヤナガワ先生に呼ばれて、鹿児島大学が採択された教育GPの一環として、キャリア教育について一席おうかがいしたのである。
キャリア教育については、もし「労働のモチベーション」をほんとうに上げようと望むなら、「自己利益の追求」という動機を強化しても得るところはない、と私は考えている。
その話をする。
これについては、『潮』と『新潮45』の近刊にも書いているので、繰り返しになるが、私はこう考えている。
「仕事」には「私の仕事」と「あなたの仕事」のほかに「誰の仕事でもない仕事」というものがある。そして、「誰の仕事でもない仕事は私の仕事である」という考え方をする人のことを「働くモチベーションがある人」と呼ぶのである。
道ばたに空き缶が落ちている。
誰が捨てたかしらないけれど、これを拾って、自前のゴミ袋に入れて、「缶・びんのゴミの日」に出すのは「この空き缶を見つけた私の仕事である」というふうに自然に考えることのできる人間のことを「働くモチベーションのある人」と呼ぶ。
別に私は道徳訓話をしているのではない。
私が知る限り、「仕事のできる人」というのは、例外なく全員「そういう人」だからである。
ビジネスの現場において、「私の仕事」と「あなたの仕事」の隙間に「誰の仕事でもない仕事」が発生する。
これは「誰の仕事でもない」わけであるから、もちろん私がそれをニグレクトしても、誰からも責任を問われることはない。
しかし、現にそこに「誰かがやらないと片付かない仕事」が発生した。
誰もそれを片付けなければ、それは片付かない。
そのまましだいに増殖し、周囲を浸食し、やがてシステム全体を脅かすような災厄の芽となる。
災厄は「芽のうちに摘んでおく」方が巨大化してから対処するよりずっと手間がかからない。
共同体における相互支援というのは要するに「おせっかい」ということである。
最初に「災厄の芽」をみつけてしまった人間がそれを片付ける。
誰もが「自分の仕事」だと思わない仕事は「自分の仕事」であるというのが「労働」の基本ルールである。
たぶん私の言葉は現代日本人の多くには理解できないだろう。
労働者の多くと左派知識人は「できるだけ自分の仕事を軽減することが労働者の権利である」という硬直した思考にしがみついている。
私は実際にそう公言した人間を(大学の教師の中で)たくさん出会った。
彼らはこんなふうに考えていた。
自分は「収奪された労働者」であるから、「労働者を収奪するシステムがクラッシュしても、それは労働者の責任ではない。むしろ、労働者を収奪するシステムの瓦解を加速するという仕方で、私は革命的に行動しているとさえ言えるのである」
そんなロジックで彼ら彼女らは自身の怠業を正当化していた。
ほんとの話である。
私が助手として勤務していたある大学の研究室では、教員たちは(たぶん10年くらい)研究室の掃除を一度もしていなかった。
自分の机のまわりくらいは片付けたかもしれないが、公共スペースはゴミだらけだった。
それは私の仕事ではない、と彼らは言った。
そのようなことのために給料をもらっているのではない、と。
その通りである。
でも、私は助手になって最初に公共スペースの掃除をした。
私は意外なことにわりときれい好きだからである。
研究室を片付けるのに5日ほどかかった。
ものすごい汚れ方だった。
さまざまなゴミが詰まっていて使用不能になっていた演習室が一つあり、それを片付けるのにも3日かかった。
たしかにそれは「私の仕事」ではなかったし、誰も私にそんなことは要求しなかった。
けれども、汚れはすでに研究室の日常業務そのものを浸食し始めていたのである。
だが、専任教師の誰ひとりとして「ここを掃除しないか」とは言い出さなかった。
もしかすると、彼らはこんなふうに研究環境が日々劣化してゆくことを座視することで、自分たちの労働環境がどれほど劣悪なものであるか、自分たちがどれほど非道に収奪された労働者であるかを目に見えるかたちで人々に示したかったのかもしれない。
だから、私が部屋をきれいにしたことに率直に「きれいになったね」とか「ありがとう」と言ってくれた人はほとんどいなかった。
同僚の助手などはあからさまに不快そうな顔をした。
私のボランティア的清掃活動はその助手が在任中これまで環境美化のために何もしなかったことへの迂回的な告発だととったのである。
別のある職場では、着任と同時に、先輩から「できるだけ仕事しないでください」と頼まれたこともある。
「あなたがあまり働くと、私たちがまるで働いていないみたいに見えるから」
ほんとうである。
考えてみれば当然だが、「政治的に正しい」人たちは「よけいな仕事」をしたがらない。
「誰の責任でもない仕事」をさくさくと片付けたせいでシステムの不調が前景化しないと、彼らの「世の中間違っている」という主張が裏付けられないからである。
だから、「誰のものでもない仕事」を「あ、オレがそれやっとくわ」というふうに片付けてしまう「おせっかい」を彼ら彼女らは快く思わない。
私はあらゆるタイプの「政治的に正しい人」から嫌われるけれども、それは私が「ついゴミを拾ってしまう」人間だからである。
私のような人間ばかりであると、社会はどれほど制度設計がろくでもないものであっても「けっこう住みやすく」なってしまう。
だから、「私たちの社会は根本的改革を必要とするほどに病んでいる」という事実を立証したいと思う社会理論家たちは、目の前にある「災厄の芽」を摘むことで、矛盾の露呈を先送りし、社会の崩落を防ごうとする人間を憎むようになるのである。
自己利益だけを追求する人々と、社会の根本的改革を望む「政治的に正しい」人々は、どちらも「おせっかい」なことをせず、私たちの社会をシステムクラッシュに(意識的であれ無意識的にであれ)向かわせる。
その間で「お掃除する人」は孤立している。
けれども、「災厄は先送りせねばならない」ということと「災厄の芽は気づいた人間が摘まなければならない」ということが私たちの社会の常識に再度登録されるまで、私は同じことを執拗に繰り返さねばならない。
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