日曜日なので呼吸法をしてみる

2008-11-10 lundi

ひさしぶりの日曜日。
朝寝をして、ゆっくり朝ご飯を食べて、少し原稿(「日本辺境論」)の続きを書いて、昼過ぎから合気道のお稽古。
ふだんは土曜が稽古日だけれど、たまたま日曜の午後まるまる体育館がとれたので、特別稽古。
時間がたっぷりあるので、まず中村明一さんに習ったばかりの「密息」で呼吸法をやる。
表層筋を使わずに、深層筋だけで深く、沈み込むような呼吸をする。呼気はそれほど違和感がないのだけれど、吸気のやり方がふだんと違う。容れ物の底が抜けたような感じで息がすうっと落ちてゆく。
密息を習った翌日がちょうど能のお稽古の日だった。謡の稽古(『安宅』と『山姥』)をつけていただいたあと、下川先生から「呼吸の仕方がよくなったね」と言われた。さすが専門家である。わずかな変化でも見落とさないのである。
謡はどういう呼吸法なのかお訊ねしてみた。
改まって習ったことはなく、子どものころから大人の能楽師たちの立ち居振る舞い発声法を見聞きしているうちに自然に身につくものだと教えていただいた。
そうでしょうね。
密息は身体を「管」化するわけだから、ふだんから着物をきちんと着付けていれば、着崩れしないように気をつけて呼吸するだけで密息のかたちは整う道理である。
合気道だって道着をつけて稽古しているわけであるから、着付けの乱れを意識して呼吸していれば、自然に深層筋をつかった呼吸法になるはずである。
というわけで、20分ほど呼吸法を行い、それから体術(中段突き)と杖取り。
たちまち4時間が経つ。
呼吸法をよくやると動きに「甘み」が出てくると多田先生はよくおっしゃっている。
「甘み」というのは言い得て妙である。
「柔らかさ」と言うのとは違う。
「甘み」というのは「これから甘いものを食べる」という予感のもたらす「前味」(という日本語はないけど)があり、「甘いものを口中に投じ、咀嚼し、嚥下している」リアルタイムの経験があり、最後に「口中の甘みの記憶」という事後の「後味」が残る。
つまり、「甘み」というのはすぐれて時間的な現象なのである。
これを武道的な動きに適用していうなら、動き出す前に「すでに」技が始まっており、動き終わった終わったあとにも「まだ」技が続いているように感じられるのが「甘み」のある動きだということになる。
その境域内にはいったものを活殺自在に操れる空間のことを「結界」と言う(ふだんの稽古では、体軸を中心にしたおよそ半径2メートルの円錐形の空間を「結界」とみなす)。
その理屈からいえば、「甘みのある動き」というのは「時間的な結界」ということになる。
「まだ」何も始まっていない段階で、「すでに」相手を「時間的な結界の中」に取り込んでしまうことができれば、たしかに理屈の上では活殺自在である。
呼吸法がたいせつだということを多田先生から長いこと教えられていながら、それが武道的にどうして重要なのかということの意味がなかなかわからなかった。
ここでも問題はおそらく「時間意識の操作」なのである。
「結界」というのは別に物質的に「はいよ」と示せるものではない。
私の脳内にのみ存在するものである。
私の脳内にのみ現象的に存在するものが、どうして「活殺自在」というような現実的効果を持ちうるのか。
ここが面白いところである。
ちょうどそのことを稽古に行く前に「日本辺境論」に書いていた。

自分の時間意識を騙す。これは可能です。時間意識は脳内現象ですから、操作できる。
「既視感」というのがそうですね。「あ、これはどこかで見たことがある風景だ」ということが私たちの身にはよく起こります。目の前にいる人が次に言う言葉までわかる。その通りの表情をして、その通りの言葉が実際に口にされる。でも、これは私たちが脳内で時間を操作しているから起きていることです。「はじめて見た風景」を「意識というスクリーン」に映写するとき、そこにわずかな「タイムラグ」を入れているのです。「邯鄲の夢枕」と同じで、わずか数十分の一秒程度の「タイムラグ」を私たちの時間意識は1分にでも100年にでも「解釈」することができます。だから、数十分の1秒前に見た景色を遠い昔に(まれには「前世で」)見た景色だと確信するということさえ起きる。
それと同じ「トリック」を自分自身の身に起きている「不測の事態」に対して適用する。はじめて経験することを「はるか以前にすでに経験したことがあり、それがどういう経緯で起きて、どういう経過をたどって推移し、最後にどうなるかまで、私はすべて知っている」という既知の枠組みの中に取り込んでしまう。実際には知らない。でも、「知っていること」にする。それによってある種の「予知能力」を手に入れることができる。何しろ、「これからどうなるか私は知っている」という前提で行動するわけですから。打つ手打つ手がすべてぴたりと当たる。もちろん実際にはこれからどうなるかなんて知らないんですよ。神ならぬ身に未来のことがわかるはずがありません。しかし、知らないけれど知っているかのようにふるまうことはできます。そして、その(詐取された)全能感はあきらかに私たちの心身のパフォーマンスを向上させる。だから結果的に「打つ手打つ手がぴたりと当たる」ような気になるようなことも起きる。
さきほど例を挙げたように、私たちが想定していたのは「いきなり斬りかかられる」というような危機的状況です。そういう状況を生き延びるためには、とにかく心身のパフォーマンスを最大化することが必須です。ふだんの実力の120%とか150%を発揮しないと生き延びられない。そういうときは「詐取」でもなんでもいいから、とにかく満腔の自信を以て危機に対処するという構えが絶対に必要なんです。
ですから、武術というのは、平たく言えば、心身のパフォーマンスが例外的に低下するような状況において、心身のパフォーマンスを例外的に向上させる技術のことです。そして、伝書が教えているのは、そのためには身体能力の向上には限りがあるから、どこかで時間を自在に行き来する術を身につけなければならない、ということです。

「時間を自在に行き来する術」などというものは外形的には存在しない。
けれども、自分の脳内の時間意識を操作して、「ためたり」、「食ったり」、「加速したり」、「制動をかけたり」することはできる。だって、自分の脳なんだから。
おそらく呼吸法はそのための「コントローラー」なのである。
「呼吸問題」は奥が深そうである。

体育館を出るともう暗くなっている。
肌寒いので、今夜は鍋にすることに決定。こたつも出したしね。
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