入試の季節

2008-11-09 dimanche

入試の季節が始まった。
これから2週間、週末は面接試験で出勤である。
私が受験生だったころ、大学入試は「1回勝負」であった。
今は10月から3月まで、何回もある。
どこの大学も AO 入試からセンター入試まで10種類以上のメニューを備えている。
「受験生フレンドリー」であるとも言えるが、実情は「死にものぐるいの志願者確保」であり、さらにひどい場合には「みかけの志願者数」の水増しである。
だから、各大学の志願者データは今ではあまりあてにならない。
去年、ある大学は「見かけの志願者数」を前年の3倍近く伸ばした。
でも、受験者の実数は変わっていない。
どうしてそういうことが起きるかというと、1学科分の受験料で複数の学科にも同時に志願できるシステムを採用したからである。
結果的にいくつも学科で同一人物が合格者にカウントされた。
だから、「合格者数が受験生数よりも多い」というケースが出てくる。
『大学ランキング』の小林さんがこんな話を教えてくれた。

「1つの願書で第二希望、第三希望の学部を記入できる大学が増えました。同じ大学でも、文学部が第一希望、法学部が第二希望であれば、第二希望の大学は受験料が半額になると言うところもあります(3学科以上受験は受験料免除というところもありました)。これを『バリューセット』と呼んでいます。入試がマクドナルドになってしまいました。」

バリューセットですか・・・
去年、中学受験の学習塾が「見かけ上の合格者数」を増やすために、勉強のできる子どもに、入学する気のない学校も含めて複数回受験をさせた(もちろん受験料は塾の負担)というニュースを見た。
たしかにその学習塾の在籍者がその学校に合格したという事実は嘘ではない。
けれども、それを「ナントカ中学に X 人合格、ナントカ中学には Y 人合格」というふうに公開するのは見た人がその塾の実績を「誤って過大評価する」ことを求めているからである。
自分の能力を高く評価されたいという気持ちは誰にでもある。
自分の能力を(「世間のやつらはわかっていないが」)と自分ひとりで過大評価するのも、人としてはありがちなことである。
けれども、自分の能力がどの程度であるか知っていながら、それが他人によって誤って過大評価されるように仕掛けるのは種類の違うふるまいである。
者数を水増しして、「受験生に人気のある大学」を数字の上で偽装することはいわば「大本営発表」である。
受験生は最初のうちは数字を信じて「これは人気のある大学に違いない」と思うかも知れないが、そのような虚報の賞味期限はそれほど長くはない。
一時的な偽装の代償として、以後、その大学が発信する「受験情報」の信頼性は取り返しのつかないかたちで損なわれることになるだろう。
こんなことは長くは続かない。
さいわい、本学の秋季入試の志願者状況は堅調である。
昨日私が面接を担当した30人ほどの高校生たちはみんな元気で聡明なお嬢さんたちであった。
この子たちが来春から入学してくれると、楽しそうだなと思う。
本学は別に何万人もの志願者をかき集めなければならないような規模の大学ではない。
「ぜひこの大学で学びたい」と思う少女たちが毎年数百人いてくれれば、それでなんとかなる。
その「数百人」に、この学校が何をしているのか、何をしようとしているのかについて、適切な情報が伝われば、それでいいのではないかと私は思っている。
若いときにジャズバーの経営者だった村上春樹さんはお店をやるコツについてこう書いている。

「『みんなにいい顔はできない』、平ったく言えばそういうことになる。
店を経営しているときも、だいたい同じような方針でやっていた。店にはたくさんの客がやってくる。その十人に一人が『なかなか良い店だな。気に入った。また来よう』と思ってくれればそれでいい。十人のうちの一人がリピーターになってくれれば、経営は成り立っていく。逆に言えば、十人のうちの九人に気に入ってもらえなくても、べつにかまわないわけだ。そう考えると気が楽になる。しかしその『一人』には確実に、とことん気に入ってもらう必要がある。そしてそのために経営者は、明確な姿勢と哲学のようなものを旗じるしとして掲げ、それを辛抱強く、風雨に耐えて維持していかなくてはならない。それが店の経営から身をもって学んだことだった。」(村上春樹、『走ることについて語るときに僕の語ること』、文藝春秋、2007年、59頁)

店をやることと小説を書くことは同じであるというのが村上さんの考え方である。
大学を経営することもそれと変わらないだろうと私は思う。
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