新規の仕事は受け付けないと言っておきながら、木曜の午後に仕事の打ち合わせの予定が入っていた。
本学で経済学を講じている石川康宏先生(このブログでは「ワルモノ先生」という通称で繰り返し登場しているが)と共著で本を出そうという企画が持ち込まれたのである。
ワルモノ先生は人も知るマルクス主義者である。
それも “代々木の森の” マルクス主義者である。
『前衛』に資本論について研究論文を寄稿するような、「保証書付き」の正統派のマルクス主義者である。
そういう方から私に「いっしょにマルクスについての本を書きませんか?」というオッファーがなされたのである。
これはお受けせざるを得まい。
私は社会理論としてのマルクス主義の政治的有効性にはひさしく懐疑的であるが、カール・マルクスというひとの天才的知性には高校生のときから変わらぬ敬意を抱いているからである。
その人の立てた理論が歴史的反証事例によって失効しても、その人が独力で美しいほど端正な理論体系を打ち立てた力業に対する敬意は失効しない。
そもそも「社会主義圏が崩壊したという歴史的事実がマルクス主義の終焉を告知しているではないか」という言葉遣いそのものが、「歴史という審級において理論の当否は検証される」という “俗流マルクス主義” にのど元まで浸かった人間の言い草だからである。
歴史はものごとの当否を検証することもあるし、そうでないこともある。
100年単位で見た場合に、人類の選択はおおむね適切な方向に向かっているが、10年単位で見た場合には、そうではない。
そして、私たちはふつう個人としては100年生きることができない。だから、短期的な歴史を参照しているかぎり、私たちはしばしば過去の解釈を誤り、未来予測を誤る。
しかし、「100年待たないとことの当否がわからないので、当面する選択について私は決断できない」とうやむやにしているだけでは、市民としての責務は果たせない。
「確信は持てないが腹を決める」ということがどこかでなされねばならぬ。
「どこで」腹を決めるか、その「損益分岐点」の判断は個人に委ねられている。
問題は「さじ加減」である。
「さじ加減」についての社会理論というものは存在しない。
社会理論は「あるべき社会」と「あるべき社会に導くための方法」については語るが、「どういうタイミングで」「どの程度の範囲に」「どれくらいの手加減で」といったことについては何も教えれくれない。
けれども、私たちにとって真の実践的関心は実は「さじ加減」にある。
果たして「さじ加減」についての学知というものは存立しうるのか。
それが私の刻下の関心事である。
私たちに共通するのは高校生や大学生たちにマルクスを読んでもらいたいという熱い思いである。
「マルクスはいいぞ。マルクスを読みたまえ」というおじさんたちのおせっかいが若者たちに受け容れられるとよいのだが。
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(2008-11-07 13:49)