学校選択制

2008-10-27 lundi

公立中学の一部に「学校選択制」が導入されて4年半。前橋市が全国ではじめて制度を廃止する。特定の学校に生徒が集中し、生徒数の偏りが大きくなったこと、遠距離からの通学者が増えて、地域と学校の連携が希薄になったことが理由に挙げられている。
生徒数が激減した学校ではクラブ活動が維持できない、教員数が減って、専門ではない教科を教えなければならない、生徒数の減少が無根拠な風評によるケースがある、などなど。
私はこの決断はごく「常識的」なものであろうと思う。
むしろ遅きに失したというべきであろう。
学校選択制は規制緩和(ということは「市場原理主義」のことだが)の流れの中で97年に文部省によって導入された。全国約1割の自治体で施行されている。東京都では28市区が実施。学校間の人数の偏りにより、二極化が進行している。
足立区の中学では今春の新入生入学率の一番高い学校は190%、一番低い学校は8%。品川区の小学校では最高が326%、最低が28%。
定員割れの学校は「自助努力が足りない」と評価され、おそらくいずれは廃校になるであろう。
こういう選択では必ず「ポジティブ・フィードバック」がかかるから、勝つものは勝ち続け、負けるものは負け続ける。教育内容や設備にごくわずかの差しかなくても、その差はフィードバックがかかると致命的に拡大する。
QWERT配列というのをご存じだろうか。
みなさんのコンピュータのキーボードの配列のことである。
この文字配列は「打ちやすい」ように並べられているわけではない。「打ちにくい」ように配列されているのである。
初期のタイプライターではタイピストが熟練してくるとキータッチが早くなりすぎて、アームが絡まってしまうということが頻発した。それを防ぐためにキータッチを遅らせるキー配列が工夫されたのである。
最初はごく一部のタイプライターにしか採用されなかったが、大手のレミントンがこの配列を導入したことで、一気にデファクト・スタンダードになった。
そして、私たちは今やキーをどれほど早く打ってもアームが絡まる気遣いがないメカニズムにシフトしたにもかかわらず、「打ちにくい」配列をそのまま踏襲しているのである。
同じことはVHSとベータのときにも起きたし、Windows と Mac の間でも起きた。
複数の選択肢のうちから1つを選ぶことを市場原理にゆだねた場合、ほぼ確実にポジティヴ・フィードバックがかかって、実際の実力差・機能のアナログな差がデジタルな種別格差に「翻訳」されて、相対的弱者は市場から「敗者」として駆逐される。
わずかな入力差が「勝者/敗者」の死活的な差に読み替えられるような危険なシステムはできるだけ社会の枢要なシステムに配備すべきではない。
これはシステム管理上の基本である。
学校選択制はそのような危険なシステムを「マーケットは間違えない」というグローバリストたちの無根拠な信憑に基づいて公教育に導入したものである。
残念ながら、「マーケットはしばしば間違える」。
そのことは世界金融危機をごらんになればおわかりいただけるだろう。
マーケットが無謬であるなら、公的資金の投入というような「人為」はもとより不要のものである。
「マーケットはしばしば致命的な誤りを犯す」
だから、「判断をマーケットにゆだねれば、淘汰されるべきものが淘汰され、生き残るべきものが生き残る」ということは起こらない。しばしば、マーケットは淘汰されるべきものを生き残らせ、生き残るべきものを淘汰する。
足立区や品川区の学校の間に数値にみられるほどの教育的アクティヴィティの差があると私は思わない。けれども、これを放置しておけば、いずれ入学者のいない学校は廃校になるだろう。危機水域の学校では入学者をかき集めることが教育活動より優先するようになるだろう。
以前、品川区のある公立学校の校長が「保護者生徒はお客さまである。お客さまに選択される教育商品を揃えるのが教育の仕事だ」と豪語したことがある。
学校選択制はこのようなタイプの「ビジネスのワーディングでしか教育を語れない人間たち」を組織的に生み出すはずであるし、現にそうなりつつある。
このような人間たちの手によって学校教育はいま日々殺されているのである。
繰り返し言うが、教育はビジネスではない。
教育は資本主義が登場するより以前から存在する。
だから、教育の意味や価値を資本主義市場経済の用語で説明することはできない。
教育の目的はこどもたちを「成熟」させることにある。
子どもたちを成熟させるための装置として「学校」という制度は存在する。
それは株主に配当をもたらすために存在する株式会社という制度とは成り立ちも存在理由もまったく異なるのである。
子どもの成熟は「換金」できない。
「成熟すると、いくらもらえるんですか?」
というような問いをしているかぎり、ひとは成熟とは無縁である。
この当たり前の知見がいまだに共有されていない。
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