会議と書類の大学

2008-10-26 dimanche

ノーベル賞の物理と化学あわせて受賞者が4人出たことは慶賀すべきことであるが、いずれも20年30年前の業績についてのものであることの重大性を指摘する人が多い。
中村桂子さん(JT生命誌研究館館長)もその一人である。
今の日本の研究体制であれば、20年後30年後にノーベル賞を受賞するような研究は出てこないだろうと中村さんは言っている。

「現在、ちょっと変わった新しいことを考える雰囲気がない。大学が法人化され、競争的資金と言われ、すぐに成果の出ることばかりに追われ、自由度がなくなっている。会議と書類づくりの毎日はいつか軌道修正されると思っているが。」(毎日新聞10月26日)

役人が研究をコントロールしようとすれば、必ずそうなる。
役人が教育研究活動に容喙すれば、教育研究の質は不可避的に下がる。
私の大学では「シラバスに成績評価基準を明記していない教師がいる」という理由で先般助成金が削られた。
シラバスというのは授業概要のようなものである。
私は教務部長として「成績評価基準を明記せよ」と教員たちに告知する立場であるが、私自身の成績評価の基準はたいへん曖昧である。「出席、発表、ゼミでの発言などを総合的に勘案して評価する」というような基準ではお役人からは「こんなものは成績基準とは言われない」とリジェクトされるであろう。
しかし、それが実情なのだから仕方がない。
そのようなゼミをやってきて、多くの優秀な学生を送り出し、高い授業満足度のポイントを獲得し、ゼミでの議論をまとめて本も3冊出した。
しかし、「シラバスに成績評価基準が明記されていない教師が一人でもいる大学は全学的にろくでもない授業をしているに違いないから大学全体への助成金をカットするべきだ」と推論するお役人がいる。
この推論にはあまり合理性がないと私は思う。
本学では過去10年あまり授業評価アンケートを実施してきた。
そのデータを統計的に処理した結果、個別評価の数値と総合評価の数値のあいだにまったく相関のない設問が一つだけあることがわかった。
それは「シラバスの内容と実際の授業の内容は一致していましたか?」という設問である。
この問いに学生たちは5段階の評価を下す。
授業そのものへの総合評価の数値とシラバス評価の数値を比較したところ、この2つの数値の間には統計的には相関がないことがわかった。
それ以外の項目、「板書がきれいか」とか「教師は時間を守るか」とか「予復習をするか」といった設問と授業の総合評価の間には弱い連関がある。
けれども、シラバスと総合評価の間には何の関係もなかったのである。
学生たちの知的満足とも教育的アウトカムとも「何の関係もない」ことがただ一つあきらかになったシラバス表記について、そのさらに重箱の隅をつつくようなチェックで、当該教育機関の教育的アクティヴィティの質を「客観的に評価」できると思っている人々が存在し、そのような人々に日本の高等教育の財政的コントロールがゆだねられている。
中村先生の「このままでは日本はダメになる」という見通しに私も賛成である。
来週私どもの大学ではある評価機関による実地調査がある。
この種の調査で大学の質保証を行うことは原理的には不可能であると私は思っている。
というのは、大学教育の質保証のための検査項目は論理的には「無限」だからである。
「この大学はちゃんとしていない大学です」ということを証明するのは簡単である。
二重帳簿があるとか、専任教員が学歴詐称しているとか、本人確認をしないで単位を出しているとか、一つでも「ろくでもない」事実が指摘できれば、「ダメな大学」と認定できる。
法律上の犯罪と同じである。
私たちがふだん市民として大手を振って町を歩けるのは、「私は犯罪者ではない」ことが証明されているからではない。「私が犯罪者であること」が証明されていないからである。
これを「推定無罪」(presumed innocent) という。
もし私たちが「無罪であることを挙証しない限り、有罪とみなす」というルールで生きていたら、まず市民全員を刑務所に入れ、そのあと無罪を立証できた人間からひとりずつ出獄させるという社会システムを構築しなければならない(どれほどのコストがかかるであろう)。
それにそんなシステムを作って、ある人について「100%イノセント」であることが立証できても、そのことからその人が今後もイノセントであることは推論できない(監獄の門を出たとたんに魔が差して、通りすがりの人を刺殺するかも知れない)。
だから、「推定有罪」の原理に立つ限り、私たちは全員が全員を監獄に永遠に閉じ込める以外に合理的な選択肢が存在しないのである。
文科省や大学基準協会が推進している「アクレディテーション」というのは「この大学は100%まっとうな大学です」という質保証をすることである。その質保証ができない大学は「まっとうではない大学」と見なされる。
つまり、「推定有罪」である。
だから、検査項目は無限であり、検査時間も無限になり、私たちが書かされる書類も無限に増えてゆく。
だが、大学はそのもてるすべてのリソースを「質保証」に注ぎ込んでもそれでも「これまで質の高い教育をしてきたし、これからもするであろう」という事実を証明することができない。
永遠にできないことに、本来であれば教育研究に投入すべきリソースを投入することは無駄である。
彼らは大学に向かって「まっとうな教育研究』をすることよりも、『まっとうな教育研究をしていることを証明する仕事』を優先させよ」と言っているのに等しい。
子どもがぴいぴい泣いているのを放っておいて、「子どもをちゃんと育てていることを証明する書類」を書いている親や、殺人事件が起きたときに、デスクにかじりついて「凶悪犯をきちんと逮捕していることを証明する仕事」を書いている警察官が不条理な存在であるということは誰にでもわかる。
だが、私たちは現にそのような「カフカ的不条理」のうちに投じられているのである。
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