呪詛と祝福

2008-10-25 samedi

あまりに忙しく、日記を更新する暇がない。
とりあえず備忘のためにあったことだけ記しておく。
22日(水)午前中、下川先生のお稽古。二ヶ月ぶり。『山姥』の謡と立ち回り、仕舞。立ち回りを忘れた。『安宅』の謡。これはまあまあ。
昼から芦屋の市民ホールで芦屋川カレッジ。お題は「村上春樹にご用心」。芦屋と村上春樹のかかわりについて説き起こし、村上春樹は他の作家と「どこ」が違うか、について論じる。
私見によれば、村上春樹が他の作家と違うところは3点。

(1)走る
(2)翻訳をする
(3)変な本(『うさぎおいし〜フランス人』とか『またたびあびたタマ』とか)を書く

この3点には実は共通点がある。
それは「与えられたリソースをやりくりし、あらかじめ与えられたルールの中で何とかする」ということである。
もちろんすぐれた作家は誰も程度の差はあれ同じことをしているわけだが、村上春樹ほど「限界の内側で仕事をする」ことの重要性をつよく自覚している人は少ない。
それによって「ふだん使っているもの」がばりばりと皮を破って変性して、「こんな使い方があるとは知らなかった」ような機能を発揮するのである。

帰ってから『ダイヤモンドマネー』の連載最終回の原稿を書いて送稿。
夕方から試写会。ジョン・ウーの『レッド・クリフ』。
男の友情と鳩の2時間半。
試写会後、合気道会の諸君(ゑぴす屋さん、キヨエ&マサコ、おいちゃん、ウッキー&ヒロスエ)と軽く飲む。

23日(木)
昼からサンデー毎日の取材。お題は「橋下徹府知事の評価」。
「市民的成熟」ということに何の価値も認めない時代風潮を代表する人としてコメントする。
フランス語の授業のあと、国内留学の面接試験。
それから学祭の合気道、杖道のリハーサル7時まで。
『神奈川大学評論』に送稿。

24日(金)
朝から学祭のリハーサル。12時半から演武会が始まる。はじめて客席で見る。
1時に釈先生が迎えに来る。釈先生の車で京都は北山の京都精華大学まで。
対談のお題は「呪いと祝い」。
「呪い」という言説形式が私たちの時代において支配的なものになりつつあるという認識から出発して、「呪い」をどう除去するかという「呪鎮」の方法について語り合う。
釈先生は現場の宗教家であるから、ある意味「呪鎮」の専門家である。
私の「呪祝福」論は「時間論・身体論」である。
呪詛はコミュニティの内側でしか機能しない。
それは言い換えると「他者がいない場」において、ということである。
そして、「時間とは他者との関係である」というレヴィナス老師の命題をふまえるならば、呪詛は「時間をもたない関係」だということになる。
祝福はその反対物であるから、「他者の顕現」「時間の流れ」ということになる。論理的にはそうである。
わかりにくい話ではあるが、私自身自分が何を言おうとしているのかよくわからないのである。
けれども、それはまさに「私の言いたいこと」が時間の中で熟成してゆくということであり、そのような言葉は本質的に予祝なのである。
この対談はもう少し深めて、本にする予定(出版社はサンガです)。
釈先生に車で家まで送っていただく。行きに3時間、現地で2時間、帰り道2時間。おしゃべりしっぱなしである。
家に帰ってから翌日の仕込み(グリーンカレー)。

25日(土)学祭二日目。今日は演武会に出場して、説明演武をする。それから我が家で打ち上げ宴会である。ぷふ〜。
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