若者は連帯できるのか?

2008-10-21 mardi

土曜は愉しい合気道と例会。
日曜は一日校正と原稿書き。
ゲラがどんどん送られてくるので、どんどん送り返す。
この二週間に3冊分再校した。
ということは近々に(たぶん来月)3冊本が出るということである。
『橋本治と内田樹』(筑摩書房)
『昭和のエートス』(バジリコ)
『街場の教育論』(ミシマ社)
一ヶ月に3冊というのはこれまでにたぶん例がない。「月刊ウチダ」どころか「週刊ウチダ」である。
律儀に買ってくださる方々にはご出費をおかけして、まことに申し訳ない(ほんとにすみません)。
でも、この集中豪雨的な出版が一段落すると、しばらく(たぶん来年の初夏くらいまで)は『知に働けば蔵が建つ』の文庫化以外には新刊は出ないはずである(希望的観測)。
このあとのラインナップは『街場の家族論』『日本辺境論』『クリエイティブ・ライティング』二部作。ゲラの山にまみれる生活はまだなかなか終わりそうもない。

『昭和のエートス』の「あとがき」を書く(勢いがついて20枚も書いてしまった・・・)。
これはメディアに寄稿した既発ものを30本くらい集めたコンピレーション本である。
そのうちの30%くらいが「初出不詳」である。
どうして不詳か、その理由については「あとがき」でくだくだといいわけをしているので、そちらを徴して頂きたい。
原則として活字化されたものは掲載誌が届くと、エクセルの「業績リスト」に掲載誌名、発行所名、発行年月日、掲載頁数、梗概を記録している(年間研究業績書類の一部として提出義務が課されているからである)。
これらのテクストはそのリストにない。
つまり、自分の書いた原稿を掲載したものを私が読んでいないということである。
私に寄稿を依頼し、活字化し、掲載誌を送っておきながら「初出不詳」とされた編集者の怒りはいかばかりであろう。
それを思うとほんとうにつらいのであるが、郵便物の整理をしている時間がないのである。
今も開封されていない書籍や雑誌類がオフィスや自宅の床にうずたかく積み上げてあるが、それらを整理する日がいつ来るのか、私にはわからない。できれば年末の煤払いのときには虫食いだらけの業績リストを完成させたいものである。

続いて『神奈川大学評論』の原稿をこれも20枚書く。
「行き場を失った若者に社会的連帯の可能性はあるか?」というお題を頂いたので、それについてさらさらと書く。
連帯の可能性は残念ながら、きわめて少ないと私は考えている。
「連帯」というのは平たく言えば「小異を捨てて大同に付く」ということである。
だが、「自分らしさ」を追求することを生まれたときからイデオロギー的に強要されてきた若者たちは「自分らしさ」を構成するさまざまな嗜癖や傾向のうち、どれが「私的なもの」(小異)で、どれが「公共的なもの」(大同)であるかを識別することがあまり得意でない。
自分の「個性」のうち「誰とも共有されないもの」を控除した残りが「大同」の基盤になるわけであるが、その「引き算」をしてみると、「自分らしさ」というのは(人には言えない類の嗜癖の他には)実はほとんど存在しない、ということがわかるからである。
自分の「自分らしさ」を構成するもののほとんどが「みんなと共有されているもの」であるというのは「自分らしさ」という定義に背馳する。
この矛盾を若者たちはどうやって糊塗しているのか、というのはたいへん興味深い問題である。
私の見るところでは、「『みんなと共有しているもの』を、あたかも『みんなと共有していないもの』であるかのように見せる」という技術の進化によってこの矛盾はとりあえず先送りされているようである。
たとえば、それは外見上はほとんど違いのわからない服のブランドと価格とその記号的意味をぴたりと言い当てる能力であり、あるいは「むかつく」という形容詞をピッチを変えたり、声門の開きをコントロールしたりして、36通りに変化させて使い分ける技術である。
これはこれでたしかに超人的努力による達成ではあるのだが、果たしてこのようにして、「大同」を偏執的な仕方で差異化する努力の上に「連帯」は基礎づけられるのであろうか。
私はなんだか無理なような気がするのである。
「連帯」というのは「共通してもっているもの」を「個別化、私物化」することではなく、ひとりひとりがばらばらに所有している(かけがえのない)ものを「これ、みんなで使っていいよ」と「共通の財産目録」に贈与することである。
「ほんとうにたいせつなもの」を「パブリック・ドメイン」に置き、私有しない、という構えのことである。
というようなことを書きたかったのだが、「行き場を失っている」という現況の報告だけで20枚を超してしまったので、「連帯の可能性」について吟味する紙数が尽きてしまった。
というわけで、その「マクラ」のみここに記すのである。
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