1968

2008-10-16 jeudi

A 新聞から電話取材で「68年」の総括。
そういえば、このところ「全共闘運動とは何だったのか?」というようなことをときどき訊ねられる。
三月ほど前に、『週刊昭和』だったかしら(違ったらごめんなさい)という雑誌の「1968年号」にこんなことを書いた。

団塊の世代の元・活動家たちは個人的な「物語」を回想しがちであるが、私はむしろそのような「物語」を集団的に賦活させた「文脈」の方に興味があった。
全共闘運動が日本をどう変えたのか、というのが私に与えられた論題であるけれど、この問いに対する私の答えは「日本は変わらなかった」というものである。あれだけのエネルギーと少なからぬ犠牲者を出しながら、この政治運動は公共的な「よきもの」をほとんど日本社会に贈ることなく姿を消した。しかし、ではどうして「日本を変えない」運動があれほどの動員力と熱狂を産み出し得たのか。それを説明しなければならない。
養老孟司は東大闘争のとき、御殿下グラウンドに「竹槍」を持って整列した数百の全共闘の学生たちの姿を見たとき、強い「既視感」を覚えたと書いている。この「既視感」という言葉はことの本質を正しくとらえていると思う。全共闘の学生たちは丸山眞男の研究室に乱入して、「ナチスも日本軍部もしなかった」乱暴狼藉を働いた。丸山はそのとき終戦で完全にその死を確認したはずの「前近代」が装いを変えて登場したことを知った。
この運動の本質を同時代でもっともただしく見抜いていた吉本隆明の印象深い言葉を借りて言えば、全共闘運動は「上昇型インテリゲンチャ」の「モデルニスムス」を一蹴するために歴史に要請されて登場した「日本封建性の優性遺伝因子」の何度目かのアヴァター(変身)だった。
知られている通り、吉本の戦後の仕事は日本共産党の指導者の獄中転向の研究から始まった。なぜ、彼らはあれほど簡単にマルクス主義を捨てて、天皇主義や仏教に帰依してしまったのか。その理由について吉本はこう書いている。
このマルクス主義者たちは「わが後進インテリゲンチャ(例えば外国文学者)とおなじ水準で、西欧の政治思想や知識にとびつくにつれて、日本的小情況を侮り、モデルニスムスぶっている、田舎インテリにすぎなかった」。転向とは「この田舎インテリが、ギリギリのところまで封建制から追いつめられ、孤立したとき、侮りつくし、離脱したとしんじた日本的な小情況から、ふたたび足をすくわれたということに外ならなかったのではないか。」(『転向論』)
全共闘運動は敗戦後「民主主義と科学主義」を掲げた戦後日本人が「そこから離脱した信じた日本的小情況」のバックラッシュであった。戦後日本の「後進インテリゲンチャ」たちは、その直前まで全国民を巻き込んで、無数の死者を出した政治的幻想とその罪を、おのれ自身の問題として受け止めることを拒んだ。それはいくたりかのデマゴーグや軍人たちの罪であり、「戦争犯罪人」たちに罪のすべてをかぶせて追い払えば、国民的「浄化」は完了すると思われた。
けれども、戦後日本人が追い払ったはずの「穢れたもの」は一世代のインターバルを置いて戻ってきた(まるで父殺しを犯した男に生まれた息子が殺した父親に生き写しであったように)。それは戦争責任から無傷で遁れようとした先行世代に罰を与えるために回帰したのである。
全共闘運動はマルクス主義政治運動の形態を借りてはいたが、「科学的社会主義」とは無縁であった。私が知る限り、この運動の中で、「科学性」や「推論の適切さ」が配慮されたことはなかった。学生たちを駆動したのは「肉体」であり「情念」であり、冒険的で行動を可能にするのは「断固たる決意」であった。
全共闘運動は日本人に罰を与えて、消えた。しかし、それは私たちが「日本的小情況」を侮るたびに、別のかたちをとって甦るだろうと私は思っている。

大筋は『昭和人論』に書いたことと変わらない。
ただ、これに付け加えておかなければならないのは、「アメリカ」というファクターである。
明治維新以来、日本の若者が「熱く」なるのは「ナショナリズム」(それも「アメリカがらみ」)と相場が決まっている。
明治維新を駆動したのは1853年のペリーの黒船による「砲艦外交」である。
そのあと日本は西洋の文物制度を導入して、近代化してしまったので、「攘夷」の情念は「尊皇」の方に吸収されて消えてしまったように思っている方がいるかもしれないが、そんなことはない。
日本人が「熱く」なるのはいつでも「攘夷的ナショナリズム」によってである。
日清戦争以来の日本のアジア侵略は別にアジア隣国を憎み、これを収奪せんとしていたからではない。
植民地化されているアジア諸国を統合し、近代化された軍隊によって「攘夷」を果たさなければならないというのは、幕末以来のグランドデザインである(最初にこのアイディアをぶちあげたのは坂本竜馬である)。
私たちは日本軍というのをうっかり政府が政治的にコントロールしている「近代的暴力装置」だと思っているが、陸軍は実際にはひさしく「長州藩閥」が私物化していたのである。
彼らが軍を私物化できたのは、「グランドデザイン」を正しく理解し、継承しているのは自分たち「志士の直系」だけだという強烈な選良意識がみなぎっていたからである。
長州の根本的メンタリティは(桂小五郎から安部晋三まで)ずっと「尊皇攘夷」である。
それが太平洋戦争まで続いた。
敗戦で「尊皇攘夷」はいったん沈静化したが、60年安保闘争で「反米ナショナリズム」として復活した。
それが60年代の高度成長の中にのみこまれる。
日本人は「パイが拡大しているときは、ナショナリズムを忘れる」という根本的趨勢がある。
そして、パイが縮み始めると、すぐに「尊皇攘夷」が出てくる。
68年が「わかりにくい」のはパイが拡大して、人々が都市文化を享受し、その中でも若者たちのサブカルチャーかつてなく主導的になった時代に「反米ナショナリズム」が亢進したことの「つじつまが合わない」からである。
68年のナショナリズムに火を点けたのは「ベトナム」である。
インドシナの水田を焼くナパーム弾と前近代的な兵器で世界最強の軍事大国の世界最先端のテクノロジーと戦うベトナムの農民たちのうちに私たちは「ペリーの黒船を撃ち払う志士たち」や「本土決戦」の(果たされなかった)幻を見たのである。
私たち日本人が出来なかったことを貧しいアジアの小国の人々が現に実行している。
その日本人はベトナム戦争の後方基地を提供し、その軍需で潤っていた(朝鮮戦争のときもそうだった。私たちはアジアの同胞の血で経済成長を購ったのである)。
その「恥」の感覚が1968年の学生たちの闘争の本質的な動機だったと私は思っている。
上の文章でも書いたように、全共闘運動の目的は「日本を破壊すること」であった。
「こんなろくでもない国はなくなった方がいいんだ」というようなすてばちな気分が1968年の若者たちにはあった。
学費値上げ反対とか、学生会館の管理反対とかいうのは単なる「いいがかり」である。
学生たちはアジアの同胞たちが「竹槍」で米軍と戦っているときに、自分たちがぬくぬくと都市的快楽を享受していることを「志士の末裔」として恥じたのである。
60年代末の学生運動のもっとも印象深いたたかいは「佐世保闘争」と「羽田闘争」であるが、これは「開国」した港湾に寄港した「アメリカの軍艦」と「アメリカの飛行機」を「ゲバ棒=竹槍」で追い返すというきわめてシアトリカルなものであった。
ゲバ棒というのは若い人はご存じないであろうが、芝居の大道具などにつかう軽量でへろへろで簡単に折れる材木である。
どうしてあのような実効性のまったくない「武器」を学生たちが採用したかというと、それはまさに「実効性がない武器で戦う」というところに「竹槍性」の本質があったからである。
へなちょこなゲバ棒でジュラルミンの盾と警棒で武装した機動隊と戦うときにはじめて「ベトナムの農民との連帯」が幻想的に成立したのである。
そして機動隊に蹴散らされて、血まみれになるときにはじめてアジア人として「恥」の感覚が少しだけ軽減したのである。
あの運動を「何かを建設する」ためのものであるとか、「何か有害なものを破壊する」ためのものであるというふうに合理的に捉えようとする試みは(若い社会学者たちが始めているらしいが)たぶんうまくゆかないと思う。
1968年の運動の本質は「攘夷を果たすことのできなかった志士たちの末裔による自罰劇」にあると私は思っている。
だから、全共闘運動が最終的には官憲の手を煩わせるまでもなく、「内ゲバ」という互いに喉笛を掻き切り合うような「相対死に」のかたちで終熄したのは「自罰のプロセス」としては当然だとも言えるのである。
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