夏休みは続く

2008-08-14 jeudi

お盆なので(関係ないけど)、引き続きお休みである。
新聞の折り込み広告に「お盆セール」という言葉がたくさんでている。
お盆関係グッズ(呪術的なもの)がイカリスーパーのようなところに山積みしてあるのを見ると、「日本人て、やっぱり宗教的だよな」と思う。
一時期(たぶんバブルの頃)、日本人はきわめて非宗教的(というかハイパー現世的)になったけれど、それがたぶん戦後63年の「底」で、それからあとゆっくりわれわれの宗教性は「V字回復」しているように思う。
個人的印象ですけど。
あと数年すると、小学校六年生くらいで「将来なりたい職業」に「僧侶」というようなものが登場してくるような気がする。
個人的予測ですけど。
でも、私の「何の根拠もない予測」はこれまで各分野の専門家のエヴィデンス・ベーストの未来予測よりも高い確率で実現しているので、おそらくこの予測も実現するであろう。
われわれのなす予言はつねに遂行的だからである。
今日も原稿書きとオリンピックと昼寝である。
「私はもう久しくオリンピックなどテレビで見たことがない。それどころか『オリンピック』という語を耳にしただけで脊髄反射的に眠気を催すような人間である」というようなことを先日エッセイに書いたが、こういうことを書くと、むらむらとオリンピックが見たくなるというのが私の悪癖である。
自分で「私はこれこれこういう人間である」と断定的に書いてしまうと、「いや、そうでもないんじゃないかな」と思いはじめるのである。
そして、たいてい「ほら、違うじゃんか」ということになる。
そのような断定とその否定を弁証法的に繰り返しているうちに、私がどういう人間であるかは私自身にとってますます不分明になるのである。
というわけで、日本中の善男善女とともにオリンピックをテレビ観戦して、「オグシオ」に声援を送ったり、「なでしこジャパン」のゴールにガッツポーズを取ったり、「星野ジャパン」の敗戦に涙したりしているのである。
夏季オリンピックの開催地もぜんぶ思い出した(この間までは「メルボルン・ローマ・東京・メキシコシティ」で私のオリンピック記憶は途絶えていたのである)。
なんとなく誰かに対する「あてつけ」でテレビを見ているような気もするのだが、いったい私は誰に「あてつけ」ているのであろうか。
オリンピック観戦のあいまに原稿を書く。
『カリギュラ』論(というかカミュの演劇論)を書き始めたら、どんどん長くなる。
これでは学術論文というか本になってしまう。
解説が本文より長くなっては申し訳が立たない。
困った。
久しぶりにカミュを読む。
かっこいい。
例えばこんなのはどうです。

Savoir si l’on peut vivre sans appel, c’est tout ce qui m’intéresse. Je ne veux point sortir de ce terrain.
(Le Mythe de Sisyphe,in Essais, Gallimard,1965, p.143)
「上位審級に保証されることなく生きることは可能か、私は何よりもそれを知りたいと思う。私は人間たちのいるこの世界から外に出ることを望まない。」

背筋がぞくぞくっと来ませんか。
読み出すと止まらない。
私がいかに重要な箇所を読み落としていたのかを頁をめくるごとに気づかされるからである。

昼過ぎに『Circus』の取材が来る。
ここはるんちゃんの高校時代からのともだちのなっちゃんが編集者をしている雑誌なので、「20代―30代の男性向け雑誌」という私向きではない媒体であるにもかかわらず「るんちゃんのお父さん」という立場で(どういう立場なんだろう)何度か登場させて頂いている。
今回のお題は「人生を変える3冊」。
そんなこと急に言われても・・・(企画書は一月ほど前に届いていたのであるが、他の媒体の企画と勘違いしていて、「お笑いの過政治化」についてのコメントを考えていた)。
ともあれ、若い男性の「人生を変える」という限定目的のための本を即席で考える。
私が選んだのは、『若草物語』と『我が輩は猫である』と『阿Q正伝』の三冊。
三つに共通するのは「こことは違う時代の、私とは違う人間の、私とはぜんぜん共通点のない世界観」をその内側から生きるということである。
現代日本の若者にいちばん欠けているのは、この「ワープ」する想像力だと思うからである。
そこから話は逸脱して、次号の特集が「お金」だというので、「金の話はもう止めませんか」という特集に変更することをご提案する。
現代の若者は「自分らしさ」の実現ということを「商品の購入」とほとんど同一視している。
だから、「自分らしく生きたいけれど、金がない」という没論理な命題が成立する。
自分が自分らしくないのは、主として金がないせいである。
だから金さえあれば「自分らしく生きる」ことが可能だと多くの若者は信じている。
それは違う。
自分が何をこの世界で何を実現したいのかについて具体的な、手触りのはっきりした計画を持っている人間でなければ、金があっても何もできない。
ロトで3億2千万円あたった青年が短期間に2億数千万円を失ったという記事が『週刊現代』に出ていた。
彼はまず「金を増やそう」と思ってリスクの高い金融商品に手を出して、あっというまに2億円を失った。
それから外人パブに通って女の子たちの歓心を買うために数千万円を蕩尽する。
おそらくあと数年で彼はまたもとの貧困に戻るであろう。
彼は「金が欲しい」と思っていた。「金さえあれば、自分らしく生きられる」と思っていた。
でも、いざ金が手には入ったら、自分が金の使い道についてローレックスを一個購入する以外に、何一つ具体的な使途を考えていなかったことに気づいたのである。
具体的な使途について綿密な計画を立てていない人間に大金を渡すと、することは二つしかない。
退蔵するか、蕩尽するか、いずれかである。
どちらも「自分の金の使途の決定権をよく知らない他人に丸投げする」ことである。
言い換えると、「自分らしく生きる」とはどういうふるまいを言うのかを「他人に決めてもらう」ことである。
「自分らしく生きたいのだが、金がない」という若者たちにとって、「自分らしく生きる」ということは要するに雑誌広告に出ている商品(洋服や化粧品や時計や自動車やリゾートでの五泊六日の旅などなど)を購入することにすぎない。
彼らはたとえ大金を手に入れても退蔵するか、蕩尽するか、どちらかを選ぶしかない。
それは上で述べたとおり「自分の金の使途を他人に決めてもらうこと」である。
「自分の金の使途を他人に決めてもらうこと」、それが「具体的使途を想像したことがないままに大金を手に入れたすべての人間がやりそうなこと」である以上、そのふるまいが「自分らしく生きる」という定義と二重に背馳するということはすこしでも論理的に思考できる人間であれば、誰にでもわかるはずなのである。
だから、「私が私らしく生きられないのは、金がないせいである」という命題は没論理的であると申し上げたのである。
率直に申し上げるが、「そういうこと」を言っている人間が「自分らしく生きられない」のは、「自分」が何者であり、自分が何をしたいのかの決定を他人に委ねて生きているからである。
ほんとうに「自分らしく生きたい」と思っている人間の言葉が「みんなと同じ」であり、市場原理と消費経済とジャストフィットするということは論理的に「ありえない」ということにどうして気づかずにいられるのであろうか。
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