ようやく夏休みらしくなってきた。
今日は朝日新聞の取材が一件あるだけ。
朝からゲラをさくさくと片付ける。『現代霊性論』の初校がほぼ終わりが見えてきた。
それでも机の横にはゲラが高さ30センチほど積まれたままである。
4冊分か5冊分あるらしい。
そんなに本を出してどうするのであろう。
私の本の書評に「どれも同じ内容である」ということを以て難じる方がおられるが、そんなことは言われなくても書いている本人がいちばんわかっており、かつ困惑しているのである。
月刊誌なみのペースで単行本を出していれば、内容が同工異曲というよりはほとんど同工同曲となるのは勢いのしからしむるところである。
そんなに本を出す必要はない、せいぜい2年に1冊くらいでよろしいのではないかとほとんどすがりつくように申し上げているのであるが、編集者たちはこの懇願にまったく耳を貸す様子がない。
彼らは口を揃えて「たしかに他の出版社の本は(無内容な本なので)出す必要がないが、うちの本は(例外的に内容のある本だから)早急に出す必要がある」というものである(かっこ内は発語されない「内心の声」)。
だが、なぜ、あなたのところの本だけ例外的にクオリティが高く、他の出版社の本はそうでないと言い切れるのか。
同一著者が書いている限り、どの本も同じ程度のクオリティであり、そのクオリティは発行点数が増えるにつれて低下するということは自明のことである。
私を急かせばそれだけ全出版社が「ババをつかむ」リスクが増すということである。
出版社サイドは書き手が一人「ババ」をひりだして「ツブレ」ても、代えはいくらでもいるのだから、「じゃ、次、行こうか」で済むが、私は「ババひり男」として残る生涯を恥のうちに生きなければならぬのである。
ある学会誌から書評を頼まれた。
本を送っていただいたのでぱらぱらと読んだが、驚くべきことに最初の20頁を読んだ限りでは、そこに何が書いてあるのかまったく理解できなかった。
こういう場合には解釈の可能性が3つある。
(1)たいへん内容が高尚かつ難解であり、私程度の頭では理解が及ばない
(2)専門家にとってはそれほど難解でもないのだが、私の専門ではないので、理解が及ばない
(3)誰が読んでも誰にもよく意味がわからない
どの場合でも私が書評を担当するのはまことに不適切な人選であるということにはどなたもご同意いただけるであろう。
昼過ぎに朝日新聞の取材が訪れる。
「父を語る」というシリーズ記事のためのインタビューである。
父親がどういう人であるかということが、この年になってようやくだんだん分かってきた。
七回忌をすませた頃になって、死者のことが「だんだん分かってくる」というのも奇妙な話であるが、死者の相貌は死んだ後もゆっくりと変化してゆくのである。
私たち兄弟が父親から受け継いだきわだった資質は「感情を抑制すること」であるという話をする。
私が「感情を抑制する」人間であると聴くと驚く人がいるかも知れないが、実は驚くべきことに私は喜怒哀楽の感情を外に出さないことに心理的資源の大半を日々費やしている人間なのである。
私の内面に渦巻く感情の激烈さは「こんなもの」じゃない。
それを力ずくで抑制して「こんな程度」に収めているのである。
若い頃は「ウチダは自分の感情をあらわにしない。思っていることをそのまま口に出して言ったらどうか」と多くの人に責め立てられたものである。
でも私はその忠告に従わなかった。
私が感情的発言を抑制したのは、そうしたらみんなが私から遠ざかってしまうことがわかっていたからである。
私は内心を吐露することよりも「みんなといっしょに楽しくやりたかった」のである。
それでいいじゃない。
「自分を偽ってでもみんなと仲良くしたい」というのが私の根源的趨勢であった。
だとすれば、その趨勢をこそ「自分」と呼ぶべきであろう。
その程度のことで「偽る」ことが可能であるならば、それはもともと「自分」と呼ばれるに値しない幻想的なセルフイメージだったのである。
私は感情を抑制することで、おのれの欲望に忠実たらんとしていたのである。
この「感情を抑制すること」で欲望を実現するという戦略を採用する人は今少ない。
感情を剥き出しにすることが人間の社会的ありようとして「望ましいこと」だとされているからである。
だから、逆に「感情を剥き出しにすること」を自己の欲望の実現のために戦略的に使う人が増えてきた。
昔と逆になったのである。
どちらがよいということでもない。
ただ、「感情を剥き出しにすることで自己の欲望の実現をはかる」という戦略は(その幼児的様態を含めて)飽きられ始めているということはあるような気がする。
私たちの国では、ことの良し悪しよりも「飽きられている/いない」という基準の方が社会的行動を律する力が強い(変わった社会である)。
だから、遠からず、私たちの国にも「感情を抑制する」方法を学ぼうとする若い人たちが少しずつ増えてくるだろう。
先人の風儀を彼らに伝えるまでは長生きしたいものである。
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(2008-08-06 09:47)