北京オリンピックに思うこと

2008-08-05 mardi

今朝の新聞を読んだら、新彊ウイグル地区で爆弾テロがあった。
北京オリンピックは果たして無事に開催されるのであろうか。
毎日新聞に三ヶ月おきに書いている「水脈」という時事エッセイの締め切りなので、そのことについて書く。
北京オリンピックについては、二ヶ月ほど前に TBS の報道研究誌に寄稿を求められて、少し長めのものを書いたことがある。
あまり人目に触れる機会のない媒体であるから、その後半部分をここに転載しておく。

友人のビジネスマン平川克美くんは「中国人が北京オリンピックで失うものは、日本人が東京オリンピックで失ったものの10倍規模になるだろう」と予測している。私の実感もそれに近い。
中国の人々が北京オリンピックで失うものは私たちの想像を超えて巨大なものになるだろう。
こういう国家的イベントによって失われるものは「かたちのあるもの」ではない。むしろ、「かたちのないことが手柄であるようなもの」である。
日本の場合、それは「何となく風通しのよい敗戦国の脱力感」であった。中国の場合、それに相当するのは何だろうか。
考えてみたが、それは「貧しさとつきあう知恵」ではないかと思う。
端的に経済的に「金がない」ということではなく、貧しさを致命的なものとさせないための「生活の知恵」がこれまで中国にはあった。少なくともそのような「生活の知恵」が必須であることについての国民的合意はあった。
それが失われるのではないかと私は思っている。
「貧しさとつきあう生活の知恵」とは、「貧しさに対する共感」「貧しさに対する有責感」と言い換えることもできる。それは、貧しい人を見ていると、彼らを「私の同胞だ」と感じ、「偶然の幸運が私をそこから引き上げることがなければ、私もまたこのような赤貧のうちで苦しんだかもしれない」というしかたで想像力が働き出し、それゆえに、「この人たちを救う個人的な責務が自分にある」と感じることである。
もちろん、このような共感や有責感に実定的な根拠はない。なんとなくそう感じられるというだけのことである。けれども、貧しい人々がそれでも人間的尊厳を維持して生きるためには、この種の「錯覚」が国民的規模で根づいていることがどうしても必要である。
二十世紀の中国にはそのようなエートスが、少なくとも「そのようなエートスがなくてはすまされない」という考想がたしかにしっかりと存在していたと思う。魯迅や孫文や毛沢東が中国人に根づかせようとしたのは、そのような心性である。その歴史的実験はある程度の成功を収めた(そうでなければ、革命は成就しない)。
それが失われ始めた時期ははっきりしている。それは、鄧小平の「改革・開放」政策からである。鄧小平のこの政策を特徴づけるのは「先富論」という考え方である。
ある特定地域に資本と技術と労働者を集中させる。そこに経済活動の拠点ができ、そこに富が集中する。すると周囲の貧しい地域はその「余沢」に浴することができる。だから、まずどこかを誰かを突出させて富裕にすることが、全体が富裕になるための捷径である、というのが「先富論」の論理構成である。
みんなを貧乏でなくすためには、誰かひとりをまず金持ちにさせればよい、という考え方である。
不思議なロジックであるけれど、これは「中華思想」というイデオロギーから派生したものだから、実は中国人にとってはなじみがよい。
古来、中原には中華皇帝がいて、すべての権力と財貨と文化はそこに一極集中する。そこから「王化」の光があまねく「王土」に同心円的に拡がるのである(その外側には「化外の民」が蟠踞している)。
中華皇帝に一極的に集中されるリソースが巨大であればあるほど帝国の威信は高まり、結果的に皇民たちが享受できる「王化の恩沢」も増大する。だから、全員が文明を豊かに享受するためには、文明の精華を一人に集中させるのが効率的である、とするのが中華思想である。
繰り返し言うように私たちには理解のむずかしいロジックであるが、中国人は数千年来、この考え方に深く親和している。
毛沢東の「農村が都市を包囲する」革命論や「いま、ここ、私において、すべての知識と技術は体現されなければならない」という紅軍兵士論は、中国の歴史の中ではきわめて例外的なものだと私は思っている。孫文の三民主義から毛沢東の大躍進や文化大革命にかけての中国が「例外」だったのであり、鄧小平の改革開放論は清朝末期の洋化政策とほとんど地続きである。私はそう思っている。
先富論は中華思想の忠実な現代ヴァージョンである。だから、北京オリンピックもこの先富論の延長上に構想されている。
北京に国際社会が度肝を抜かれるようなハイパーモダンな都市を建設する。2008年時点で中国人が所有しうる最高に現代的なものを北京に集中させる。ハイパーモダンでない要素は「北京外」に掃き出す。
SF的想像をしてみるとわかるけれど、これは「西太后が北京オリンピックを主催した場合にしそうなこと」そのものである。
私たちは北京と北京外との文明的な落差を、ハイパーモダンな中国と前近代的な中国の悲しむべき位階差と理解するけれど、これは私たちの読み方が間違っているのである。そうではなくて、「2008年の北京」は全中国人がいずれ享受することになる物質的豊かさを先取りした予兆的な記号として読まれなければならない。少なくとも中華思想と中国政府当局は国民たちに事態をそう読むことを要請している。
北京オリンピックは沿海部に富を偏在させた鄧小平の先富論のさらに昂進した形態、すなわち一極にすべての富と情報と文化資本を偏在させ、それによって中国全体の底上げを図る「ハイパー先富論」の実験である。
このアクロバティックな政略が果たして成功するのかどうか。私は懐疑的である。
鄧小平の先富論が成功したのは、一つには富が集中するエリアをかなり「広め」に取ったからであり、一つには、地方から都市に出て来て学歴を積み上げたり、ビジネスで成功したりした人々が「故郷に錦を飾る」という美風がまだ残っていたからである。それによって沿海部に偏った富は内陸部にも還流した。
けれども、「郷里に残された貧しい同胞」を救うことを動機づける「貧しさに対する共感」や「貧しさに対する有責感」は、「私もまたかつては貧しい人間であったし、これからも貧しい人間になることがありうる」という想像力なしには存立しない。鄧小平の時代までは、そのような想像がそれでもリアルだった。けれども、それから30年が経った。今の若い中国人の中に「私もまたかつては貧しい人間であったし、これからも貧しい人間になることがありうる」という想像力の使い方が身になじんだ人はもう昔ほど多くない。貧しさを一度も経験したことがなく、それを特別なことだと思っていない若い世代が急速にその数を増している。彼らに向かって、「貧しいものはあなたの同胞だ」と告げても、その言葉はあまり説得力を持たないだろう。その一方で、富を一極集中することの緊急性だけは国論として統一されている。
だが、こんなふうにして、「貧しさに対する共感」「貧しさに対する有責感」を涵養する教育的インフラを置き去りにしたまま、「富が一極に集中することはよいことだ」というメカニズムだけがひたすら昂進した場合、中国社会はどうなってしまうのであろう。
清末の洋化政策はみじめな失敗に終わった。それは、為政者たちには「強力で近代的な軍隊や社会的インフラを整備すること」の喫緊であることへの理解はあったが、それを動機づけたのが外国の侵略に苦しんでいる同胞の痛みへの共感や有責感ではなかったからである。彼らは「中華」の凋落を恐れただけである。だから中華は凋落した。
毛沢東がアヘン戦争以来100年の屈辱を晴らして、中国に国際的威信を回復させた事実は、その無数の失政を差し引いても評価されなければならない。そして、それを可能にしたのは、「貧しい同胞への愛と共感がすべての施策を動機づけなければならない」という原理を(実行されたかどうかは別として)毛沢東は譲らなかったからである。
先富論はたしかに原理的には効率的な分配のために構築されたメカニズムであった。私はその点では鄧小平の善意を信じている。けれども、「貧しさへの共感」「貧しさへの有責感」を失った先富論は効率的な収奪を正当化するイデオロギーに転化する。そのことの危険性に当代の中国の為政者たちはどれほど自覚的であるか。あまり自覚的ではないような気がする。
私が北京オリンピックについて感じる不安はこの「富の収奪と偏在を正当化するイデオロギー」の瀰漫に対してである。
北京オリンピックでは伝統的な街路である胡同(フートン)がそこの住民のライフスタイルこみで取り壊されたけれど、そのことに対する懐旧や同情の声は中国メディアではほとんど聴かれなかった。こんなふうにして、オリンピックを機に北京から中国の前近代性をはしなくも露呈するような要素は一掃されるのであろう。けれども、それと同時に「中国の前近代性をはしなくも露呈するような要素」に対する哀惜と懐旧の気分もまた一掃されるのだとしたら、私は中国人に対して、その拙速を咎めたいと思う。
私たち日本人もまたそんなふうにして、失うべきではないものを捨て値で売り払ってしまった。それがどれほどかけがえのないものであったのかを私たちは半世紀かけてゆっくり悔いている。
貧しさ、弱さ、卑屈さ、だらしのなさ・・・そういうものは富や強さや傲慢や規律によって矯正すべき欠点ではない。そうではなくて、そのようなものを「込み」で、そのようなものと涼しく共生することのできるような手触りのやさしい共同体を立ち上げることの方がずっとたいせつである。私は今そのことを身に浸みて感じている。
私のこのつぶやきが隣国の人々に届くことはおそらくないだろう。けれども、北京オリンピックをビジネスチャンスや純然たる享楽の機会として心待ちにする日本人たちと、北京オリンピックによる中国の国威発揚がわが国の相対的な地位低下をもたらすことを恐怖して、オリンピックの失敗を祈っている日本人たちに立ち混じって、北京オリンピックが中国人にもたらすかもしれない災厄ができるだけ少ないことを祈っている日本人が少数ながら存在することを証言するために、寄稿依頼を奇貨としてここに書き記すのである。
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